ラカイン人の歴史に関する見解の矛盾点 

 民族のルーツに関するラカイン人の見解は矛盾だらけである。ときおり彼らは自分たちがチベット・ビルマ語族であり、ビルマ族に近いと言う。しかしときおり彼らは、自分たちがチベット・ビルマ語族ではなく、インド・アーリア語族だと言う。歴史、文明、過去の偉大さを結びつけるために、二つの正反対の定義を掲げているのだ。ビルマ人によって征服されるまでの千年間、インド・アーリア語族として彼らはアラカンを支配してきたという。一方でもともとの種族がビルマ人であることを捨てることはない。実際にはこの二番目の見解が正しいのである。早期のラカイン年代記と文学のなかでラカイン人は自分たちをミャンマー人と呼んでいる。(ラカイン・サヤドー参照)

 ウー・キン・マウン・ソーは最新のリサーチのなかでつぎのように述べている。

  その時期でさえ(バガン時代)、名前、言葉、意味、用法は、発音を除き、同じだった。それゆえ、バガン帝国の人々とアラカンの人々はおなじ言語を用いていたと言っても差し支えないだろう。

 ムラウー朝時代(14301784)、アラカン国王の最後の王朝時代、アラカン人は自分たちのことをムラマ(Mrama)と呼び、国をラカイン・プリー(Rakhine Pree)と呼んだ。[訳注:現代のヤンゴン音ではryの変化が見られるので、ムラマはミャマ、ラカイン・プリーのプリーはピーと発音する。ただしラカインではryの変化はない](ウー・キン・マウン・ソー 2016

 これらの人々は歴史的、人類学的知識なしに人種と宗教をごっちゃにしている。アラカンのモンゴロイドの系統(チベット・ビルマ語族)の人々はブッダの種族のようなインド人とおなじではありえない。

 バングラデシュのラカイン人は、いまも自分たちの公式名称としてムラマを用いている。このことから、ラカイン人が自分たちをインド・アーリア人とする主張は作りごとであり、歪曲であり、過去の歴史からロヒンギャを排除しようというラカイン年代記の試みであることがわかる。ラカイン人はインド人をビルマ人とおなじくカラーと呼んでいる。もし彼ら自身がインド人なら(インド・アーリア人なら)、他者をカラーと呼ぶのは理にかなっているだろうか。

 二重の矛盾は、彼らがときどきマガディ、すなわちマガダ国から来たと主張することだ。マガダ国といえばブッダが生まれた中央インドの国である。彼らがラカイン人をマグ(Magh)と呼ぶ理由のひとつは、彼らがマガダ国(Maghada)から来たからだと言う。しかしイスラム教徒の言葉でマグは海賊を意味する。歴史家によると、マガディの人々は宗教的迫害を逃れてチッタゴン・アラカン地方に移住してきた。そしてこの移住者たちは現地の人々と混じり合った。こうしてチッタゴン方言にはマガディの影響が見られる。その影響があまりに大きかったので、チッタゴン方言はベンガル語から離れてしまった。チッタゴン方言がベンガル語と異なるのは、隣接するアラカンの言語の影響があったからである。アラカンではマガディが圧倒的に多数派なのである。

 しかしチッタゴン方言にはビルマ語やラカイン語の形跡は見られない。というのは、初期のアラカンのこれらの人々は現地人と混じり合ったマガディ(北インド人)だからである。この現地人は、現在のラカイン人ではない。マガディ・プラークリット[訳注:中期インド・アーリア語]の影響は、ロヒンギャ語の中にのみ強く残っている。ロヒンギャ語におけるマガディ語の影響は、チッタゴン語におけるそれよりずっと大きい。なぜならロハンはベンガルからすればチッタゴンよりも遠いからである。ベンガル語がロヒンギャ語に与えたインパクトは、チッタゴンに与えたインパクトよりもずっと小さかった。

 別の言い方をするなら、チッタゴン語は初期アラカン語の影響をきわめて強く受けている。つまり、ロヒンギャがチッタゴン方言を話すのではなく、チッタゴン人がロヒンギャ語の影響を受けているのだ。アラカンの初期の碑文は、何世紀もの間にロヒンギャ語が変化しているにもかかわらず、ロヒンギャ語ときわめてよく似ている。ラカイン語にはマガディ語の形跡はまったくなく、アラカンの初期の碑文ともまったくつながりがない。それは古いビルマ語である。

 ビルマにはつぎのような格言がある。「正しいスペルを知りたければラカイン人に聞け。ラカイン人が日頃使う言葉は、ミャンマー語の小辞典である」。民族的な観点からいえば、ラカイン人の外観はマガディ人、インド人とはまったく異なっている。どこから見ても、ラカイン人はビルマ人である。ラカイン南部の人はとくにビルマ人とよく似ている。ミャンマー人がマガディ(マガダ人)だという歴史家はいない。すなわちラカイン人をマガディとする根拠は何ひとつないということである。もしマガダからアラカンへの移民があったとしても、それは今日のロヒンギャだろう。北インド人との言語的、民族的同化が見られるとするなら、それはロヒンギャである。結局ラカイン人はミャンマー人である。マイケル・チャーニーのフェイスブックには2018年4月1日付でつぎのような文がアップされている。

1388年、ハワー・マルコムは実際にラカインを訪ねた。彼はつぎのように書いている。「この国(アラカン)はビルマ民族と言語のいわば親に当たる国だ。彼らはたしかにビルマ人と比べると知性において劣り、国も繁栄しているとは言い難い。疑いなく、頻繁に起こる、凄惨な戦争と長期にわたる抑圧の結果である。文書上の言語はビルマ語とまったくおなじである。しかし多くの発音が異なっているので、ビルマ人には理解しがたいようだ。

 なぜ言語と人々がアラカン語、アラカン人でなく、マグ(
Mug)と呼ばれるのかははっきりしない。一般的には、当時ヨーロッパ人に大いに知られることになる国を統治していた国王の民族名から取ったと言われる。彼らはこのマグを軽蔑的なニックネームとみなし、自分たちのことはムランマ(Mrammas)と呼んだ。この名はビルマ族に奪われてしまったと、彼らは宣言している。彼らはビルマ人を「ウッタル(Ouk Thar)」すなわち低い国の人々と呼んでいる。今度はビルマ人のほうがこの名前を侮辱的だとしている。多くの自分たちの宗教を得たベンガル人が国の沿岸地方に定住している。彼らはアラカン人から「クラ・イェケイン」と呼ばれている。

 しかし今日、この14世紀に遡ることのできるムスリムもまた、ベンガル人侵入者として扱われているのである。

 

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