神話なし、事実のみの<ロヒンギャ史>  

ウー・チョー・ミン 

 

アウンサン将軍の国民の概念 

「このごろは、世界中どこでも、国民というものを民族や宗教といった狭い範疇に限定すべきではありません。国家はそれぞれの共同体の権利を拡大し、ただ単に彼らの中に居住しているだけの者や、彼らとともにあり、生きていくと決めた者など、彼らに属さない者たちにまで及ぶのです」(アウンサン将軍 1946) 

 1947年1月のビルマの独立のためのアウンサン・アトリー協定のなかで、別表Aのなかに、独立より十年前の時点で英国自治領に生まれ、持続的に八年住んだ者は市民として認められるべきとする条項を含んでいた。(付録参照)

 この認識を持って、ボージョー(将軍)アウンサンは1947年、死の直前に憲法を自ら作成した。憲法制定議会は憲法案を承認した。ここに二つの法があった。憲法第11項に準拠した1948年の(市民のための)市民権法令と1948年の(外国人のための)市民権選挙法令が発布された。上記の市民権条令のもとに、第3項(1)と第4項(2)によってロヒンギャはミャンマーにおいて市民権を完全に享受する。

 上記の第3項(1)市民権法令は明記する。「憲法第11項の目的のために、ビルマの土着の民族とみなされるのは、アラカン族、ビルマ族、チン族、カチン族、カレン族(カヤー族)、モン族、シャン族、そして1823年以前から永住している(ビルマ)連邦国内の領域に住む民族集団である」

 上記の第4項(2)市民権法令は言う。「少なくとも二世代にわたって(ビルマ)連邦国内の土地を永住の地にしたか、彼自身及び両親がこの領域内に生まれた者の子孫は、連邦国の市民とみなされる」

ほぼすべてのロヒンギャはこれらの項にあてはまり、完全な市民として認識され、国民登録カード(NRCs)が発行されるはずである。1951年の居住登録法第33項のもとでは、このカードは外国人には発行されない。これらの法によれば、ロヒンギャは完全なミャンマー市民となりうる。彼らは上記の市民権選択法令のもと、市民権を申請する(帰化)必要はなかった。なぜなら彼らはすでにビルマの土着の人々だからだ。市民権を得ようと帰化申請する必要はない。1948年から49年にかけて、一部のロヒンギャは上記の市民権選択法令に基づいて帰化申請をした。しかし彼らの申請は市民権選択判事によって返されてしまった。申請に付け足された書類から彼らがビルマの土着民であることがわかったからである。帰化して市民権を取る必要はなかった。ここにわれわれは、帰化申請課の官吏によるブティダウンのアブドゥル・ゾリルなる者への通知の手紙を添えたい。(付録参照) 

 国家の市民権と土着の民族という考えは理にかなっていて、何十年もそれでうまくいった。NRCカードを持っている人はすべての国政選挙に参加することが許された。2015年の選挙もそうである。つまりNRCカードは純粋に国民カードということである。上記の法令に関して言えば、市民権は一種類しかなかった。当時副局長だったアウン・ジー准将は1961年のマウンドーでのムジャヒド(ムスリム反乱グループ)征服セレモニーに参加しつつ、言った。

 西はマユ地区で東パキスタンと国境を接する。すべての国境地帯の共同体とおなじく、国境の両側にムスリムが住んでいた。パキスタン側にいる人々はパキスタニ(パキスタン人)として知られ、ビルマ側のムスリムはロヒンギャと呼ばれた。このようにひとつの民族が二つの共同体に、そして二つの国に分かれることはけっして珍しくないことを強調したい。もし中国・ミャンマー国境地帯に目を転じると、おなじ「隣接した人々」の現象を確認できるだろう。カチン州のリス族、ラワ族(Lawa)あるいはワ族、おなじカチン州のエコー族などは中国側の国境地帯にも居住する。シャン族は中国側だけでなく、タイにも見られ、タイとかダイと呼ばれる。彼らは似た言語を話し、宗教を共有する。(アウン・ジー准将のスピーチより)

[訳注:中国・ミャンマー国境で二分される民族はおそらく十を越えるだろう。そのなかで大きな集団が国境で二分されるのは、ジンポー族とワ族。シャン族・タイ族、ラワン族・独龍族も、それに近い。なおエコー族はアカ族のことで、中国ではハニ族と呼ばれる] 

 これはロヒンギャの公式認定のひとつといえる。当時の政府はロヒンギャをとがめたてることはなかった。当時は国境の向こう側から来た違法ベンガル人とはみなしていなかったのである。

 

⇒ つぎ