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 独立闘争においてロヒンギャ・ムスリムが果たした役割は、ラカイン人の歴史、政治文学ではぼやけてしまっている。ロヒンギャを抑圧し、政治的にロヒンギャを貶めるために、ラカイン人歴史家の著作は著名な歴史家の言葉の誤解を拡大し、誤引用した。中世初期のアラカンにおけるロヒンギャの存在に光を当てたタン・トゥン博士の記事は、ムスリムはアラカンにおいては自由民ではなかったことを指摘している。

 ラカイン王朝の時期でも、彼らは旅行許可証を持っていなければならなかった。彼はこの主張を裏付けるために、マンリケを引用している。しかしマンリケの著作のなかに、このようなことを述べた箇所などないのである。17世紀最初の十年間に二度、アラカンの王座を取ろうとしたポルトガル人がチッタゴンよりさらに西方へ行こうとしたときのみ、旅行許可を取るよう命令されていた。西方のムガル帝国と接触するのを制限しようとしたのである。チッタゴンから何百キロも離れた首都ムラウーあたりに住むムスリムは、一部のラカイン人過激民族主義者が光を当てたように、旅行許可証取得が必要とされることはなかった。

 もう一人のラカイン史学者、エー・チャン博士はパメラ・グトマン博士を誤引用し、ラカイン人が古代アラカンの住人だったと強調するために、アラカン史の初期の人々はチベット・ビルマ語族だと主張している。著書の中で彼はパメラの言葉を引用している。

「私たちはアラカンのもっとも早い住人が誰であるか、確信を持つことができない。もっともありえるのは、隔絶した地域に今も生き延びている少数民族のグループ、つまりムロ族、カミ族、サク族などである。現在支配的なグループ、すなわちラカイン人は、9世紀にアラカン・ヨーマ山脈を越え始めたビルマ人の前衛部隊だったと思われ」(パメラ・グトマン『ビルマの失われた王国』参照) 

 10世紀以前にアラカンにラカイン人がいなかったのはあきらかである。西欧の歴史家は、もっとも早いラカインの住人はインド・アーリア人、加えて上記の山地民族と考えている。ロヒンギャはこのインド・アーリア人の子孫だろう。パメラはまたつぎのように述べている。「アラカンに最後にやってきたのは、現在支配的なラカイン人である」。

 このまさに上記のラカイン史学者が、英国植民地時代の考古学局主任E・フォーカッマーの一節を曲解している。彼はフォーカッマーの「ロヒンギャは英国植民地時代のアラカンの移民である」という一節を引用している。彼はまた、毎年の大量の移民流入を見ながら、フォーカッマーの予言を記している。「アラカンは東のパレスチナになる」。これは著書の2ページである。考えるべきことは、1891年の時点でパレスチナに移民問題などなかったことである。フォーカッマーが言っているのは政治ではなく、宗教のことである。彼はパレスチナのユダヤ教とアラカンの仏教を比較しているのだ。彼は言う。「仏教はブッダ自身が予言したように、五千年の間アラカンで花咲くだろう、というラカインの神話は真実かもしれない。ユダヤ教がパレスチナで何千年も耐え忍んだように、アラカンの仏教も耐え忍ぶだろう。そしてアラカンは東のパレスチナになるだろう」。

 あきらかに上記のラカイン人学者は政治的目的のために、慎重に尊敬される歴史学者の言葉を誤認して引用しているのだ。ここで疑問が湧きあがってくる。どうしてこんな許しがたい誤認をするのだろうか。何世紀も前からアラカン社会は二分割されてきた。ロヒンギャに対する憎悪、悪意というのは歴史的なルーツがあるのだ。今日に至っても、アラカン社会にさまざまな形で存在するのを観察することができる。

 1660年から1663年にかけて、アラカン王サンダ・トゥダンマとムガルの亡命皇子シャー・シュジャとの間の危機の際にも、ムスリムの大量虐殺があった。1737年、ムスリムのカディルシャー(ラカイン語でカラー・カテラ)はムラウー王になった。彼は短期間で退位させられた。政治的に不安定な情勢になり、アラカン中央部のムスリムは、アラカンの政治に積極的に参加するため、家族をアラカン北部に避難させなければならなかった。

 1942年のムスリムの身の毛のよだつ虐殺もまた、アラカンの政治的風景だった。しかしながら、ラカインにおいて、同時代のリーダーたちによるムスリム殺害というようなことは、けっして起こらなかった。これに反して、ムスリムは人種間暴力に関与したとして訴えられている。2017年の北アラカンの除去オペレーションは、1942年の人種間暴力の未完の作戦が国のリーダーによって遂行されるということである。

 まとめると、上記の間違ったふるまいは、ラカインの人々の排他的な傾向に従ったにすぎない。彼らはアラカンをロヒンギャと共有したくなかったのだ。このように、彼らにとって学問的な倫理への敬意は重要ではなかった。欲望や政治的目的のほうがはるかに重要だった。2012年、ヤンゴンでラカイン人によって発行された文化と文学の雑誌には、真実に反するものばかりが載っていた。それには1942年のムスリムの虐殺について書かれていた。

 しかし批評はムスリムが攻撃者であると指摘しているのである。実際何が起こったかといえば、アラカン内陸部で何十万人ものムスリムが殺され、何百ものムスリムの村が破壊されたのだった。暴動の矛先が向いたのは、ムスリムたちだった。奇しくも2012年のコミュナル・バイオレンス(対立住民間の暴力)と呼ばれるものとまったく同じだった。


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