(8)ソマリ人の襲撃
アフリカは危険だと知ってはいても、有名な探検家たちはみな生き延びているので、ついそれほど危険ではないのではないかと考えがちだ。しかし実際はたまたま生き残った人々が探検家として名を馳せるのであって、命を落とせば、歴史から消え、忘れられてしまう。
スピークとバートンがあやうく「忘れられた探検家」の仲間入りをしそうになった事件が1855年4月に起こった。東インド会社に依頼され、彼らはナイルの源流を調べるべくソマリランドに来ていた。現代の我々はソマリ人がいかに好戦的で、戦ってばかりいることを知っている。しかし当時の彼らはそういった情報を入手することができなかった。
なぜソマリ人(ハブル・アワル族 Habr Awal)はバートンらのキャンプを襲ったのだろうか。一つには報酬(ガイド代とラクダ使用料金)が十分でないと彼らが考えたこと、さらにはスパイではないかと疑われたためだった。当時からすでに部族間の争いは激しく、彼らには西欧人の真の目的が見えづらかった。
彼らは槍部隊であり、みなやりを持っていた。バートンはやりで両頬を射抜かれてしまい、その傷は生涯残ることになった。スピークも全身に20か所のケガを負い、部隊に連れ去られたが、その後逃げ出すことができた。しかしもうひとりの仲間、ストローヤン大尉は殺されてしまった。生き延びていれば、探検家として認められ、ナイル源流の発見者として名誉を勝ち得ていたかもしれなかった。もちろん実際はソマリ人に襲われて命を落とし、歴史から忘れ去られてしまったのである。
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