歴代ダライラマの秘密の生涯
アレクサンダー・ノーマン 宮本神酒男訳
1 ロブサン・ギャツォの悲劇
ダラムサラの冬はかつての冬とは違っていた。しかし彼らがロブサン・ギャツォを探しにやってきたその夜は、だれもが覚えている冬とおなじく、明るくて痛いほど寒かった。チベット暦の「火・雄牛の年」のロサル(正月)の四日前、西洋の暦でいえば1997年2月4日だった。人によっては、年が変わることはきわめて重要だと考えるものだ。年が改まる寸前のこの時期、旧年の邪悪なものや精神的な穢れが儀礼によって除去されると信じられた。
少なくとも6人を数える彼らは、従者がロブサン・ギャツォに食事を運ぶ午後6時と、この従者がお茶を持ってくる午後8時の間にやってきた。正確な時間を確認することはできない。
その夜、ロブサン・ギャツォは二人の生徒といっしょにいたのだが、だれも物音に気付かなかった。教授兼僧侶の部屋は、ほかの50人の生徒や教師たちと共同使用する宿泊区域のなかにあったが、だれも物音を聞いていない。ここはチベット難民共同体のもっとも重要な建物のなかにあるというのに。
ここは弁証法学院であり、ロブサン・ギャツォは学院長だった。ここはツクラカンと称せられる大寺院であり、ダライラマ法王自身の僧院であるナムギェル寺だった。そしてここ、ロブサン・ギャツォが殺害された場所は、ダライラマ法王のプライベートの屋敷から百ヤードと離れていなかった。
そこにはダライラマの秘書課、聴講ホール、ダライラマ自身のオフィス、スタッフ・ルーム、チベット人とインド人から成る護衛室があった。さらには数百ヤード離れた丘の上には、ダライラマ法王自身の住居があった。通常、何かが起きれば、だれかが甲高い叫び声を発し、はるか遠くの人にも届くと思うだろう。しかし実際はだれも異変に気付かなかった。
獣のような攻撃だった。大量の血が流された。老人が横たわる(ロブサン・ギャツォは70歳だった)ベッドの上、そしてもっと若い二人の男が大の字になった床の上だけでなく、壁という壁に血しぶきがかかっていた。激しく抵抗したのは間違いなかった。
僧侶になる前、ロブサン・ギャツォが若い頃、戦士として名を馳せていたことを殺人者たちは知っていたにちがいなかった。彼は彼らのうちのひとりからバッグをひったくっていた。バッグをかかえたまま彼は発見されたのである。彼らは刃物で目を突き、喉を掻き切り、刃先を心臓に突き刺した。20か所の傷が確認された。その傷のどれもが致命傷といってもおかしくなかった。それでも彼はバッグを抱きしめたまま放さなかった。
二人の若者のむごたらしい死に方も堪え難かった。師匠のように、それぞれ15から20か所の傷を負っていた。使用人が彼らを発見したとき、彼らのうめき声は冷たい夜空にこだましていた。ひとりは数百メートル下の病院へ運ばれたときもまだうめき声を発していた。しかしその20分後には息絶えてしまった。
惨劇の発生はすぐに遠くまで知られることとなった。警察が呼ばれ、地元のプレスもかぎつけてやってきた。正確に報道しようにも、噂があふれ出てどれが事実かわからなかった。ビルの地階に怒りに任せてしゃべりまくる酔っ払いの姿があった。ロブサン・ギャツォと二人の学生のことがどこでも論議の的となっていた。中国政府がやったことではないかと唱える者もいた。当時はダライラマ法王が台湾を訪ねようとしているときで、世間が騒然としていた時期だったのだ。
地元のインド人旅行業者の見解では、すべてがカネがらみだった。老僧が最近香港から戻ってきたばかりであることはよく知られていた。彼は多額の現金を持っていた。それは信仰の篤い信者からのお布施だった。彼は学校を建てるために必要だと言って、信者たちにお布施を求めていたという。
このニュースは世界を駆け巡ったが、何週間かたってもそれに付け加えられた情報はほとんどなかった。よく言われるのは、ロブサン・ギャツォは熱烈な、忠実な支持者を持っていた。そして同時に敵が多いことでも知られていた。過去、1959年のチベット動乱のときに暴力を容認した学識のある僧やラマを容赦なく糾弾したことで、一部からは心よく思われていなかった。
彼は厳格な教師として定評があった。彼自身、厳しい修行を実践しているわけではないが、質素な生活ぶりはいい手本だった。若い弟子が教師以上に部屋を飾り立てることが許されないのはチベットの習慣だった。実際、教師であるロブサン・ギャツォの部屋には飾りというものがまったくといっていいほどなかった。
そんな彼は、他人の悪口を言うことはなかったが、唯一の例外は、護法神のドルジェ・シュクデンを信仰する人々に対してだった。彼は公の場で反対を唱えたのである。
三か月後、インド警察の発表が捜査の停滞を破った。手袋、ハンカチ、懐中電灯以外にロブサン・ギャツォが握りしめていたバッグから、デリーを拠点とするドルジェ・シュクデン支持者協会という殺害団体と関連した関連文書が出てきたのである。これらから二人の殺害容疑者を割り出すことができた。しかし捜査当局は二人がすでに国外に脱出したとみていた。彼らの共犯者に関しては何の手がかりもなかった。今日もなおこの案件は未解決のままである。
この事件はすぐに国際ニュースから姿を消してしまった。しかしまもなくして、英国を拠点とする仏教組織、ニュー・カダムパ・トラディション(NKT)に関連した記事がニューズウィークに現れた。そのリーダーであるチベット人僧侶ケルサン・ギャツォが、ダライラマ法王を公然と批判する同郷人のひとりであることが判明したのである。
しかし警察の聴取を受けたドルジェ・シュクデン支持者協会のメンバーと同様、彼らが崇拝する護法神の信仰禁止を求めた人々に対しては同意せず、彼は殺人者を非難したのである。結果として、これら二つの組織の特定はともかくとして、インドのメディアもアメリカのメディアも、虐殺の動機に関していえば何の手がかりも得られなかったのである。
シュクデンの支持者たちがロブサン・ギャツォのことを気にしていたのは間違いないが、学校のエリアに暴力的な死をもたらすほど熱狂的になっていたわけではなく、彼を殺害する理由はなかったということになっている。
護法神に関して言えば、メディアはドルジェ・シュクデンをマイナーな存在として扱っていた。この護法神は、世俗的なものを嘆願者にもたらす能力を持つと考えられた。シュクデンがもし邪悪な一面を持っているなら、それはダルマパーラー、すなわち信仰の守護者という地位に置かれることになる。もしその使命が仏教徒と信仰者を災いから守るのなら、怒りの神霊ということになる。
ドルジェ・シュクデンはゲルク派の教義の純粋性を守ることに責任があると、熱心な信仰者たちは信じていた。ゲルク派はチベット仏教の最大教派で、もっとも重要とされる。ロブサン・ギャツォもダライラマ法王もその一員である。シュクデンはいわば天界の大審問官だった。しかしながら仏教という平和な宗教をかかげているこの護法神の信仰者は、ロブサン・ギャツォの死から何を得られるというのだろうか。ダライラマ法王自身が、このカルトに、敵対的なことを言ったのだろうか。
もしこの日の記事から導き出されるものがあるとしたら、それはドルジェ・シュクデン信仰者が狭いセクト主義の精神にとらわれていることであり、また革新に反対している守旧派であることだ。内容はともあれ、意図したことではなかろうが、チベット独立に関し、中国と共闘できるということである。ロブサン・ギャツォらによって支持されるダライラマ法王が、仏教における正統派といえるかどうか、よりリベラルな政治的体制が求められるべきかどうかは論じられる点ではあろうが。
しかしここにこそ鍵がある。チベット難民12万人全員の意見というわけではないが、当時彼らはさまざまな意見を提出した。彼らは外部の世界の人々と同様、この事件に驚愕した。殺人者がだれであるかは謎のままだったが、犯罪を実行した人々とその動機に関して多くの人々は見当をつけていた。1997年2月夜の本当のターゲットがだれであるかは、多くのチベット人にとってあきらかだった。
ダライラマ法王自身である。
チベット人のリーダーを犠牲とすることが殺人者の目的ではなかった。チベット人の表現を借りるなら、羊を驚かすためにヤギを殺す、ということなのである。1997年3月31日日付の(翌年まで公にされなかった)ダライラマ法王事務所に届いた手書きの手紙には、きっぱりと書いてあった。
「おい、分裂主義者のダライよ。今年の火の牛のロサル(新年)に出された三つの肉はご堪能されましたかな? もしお望みなら、今後も肉をお出ししてあげましょう」
殺害のターゲットがダライラマ法王であったことを明らかにしただけでなく、法王のおこないにたいして直接訴えようとしているのだ。
残虐な冬の夜から何年かたったが、ダライラマ法王の支持者が恐れていたような、その評判にキズが入るというような事態にはいたらなかった。西欧での人気はより高まり、それどころか最近は中国においても支持者が増えているのだ。この点はもっとも劇的な変化といえるだろう。
ダライラマ法王の友人たちと同様、私も、ロブサン・ギャツォ殺害というチベット人社会内部で起こったことに対し、すさまじい怒りを覚えた。しかしそれに対し、扇動的な対処を法王自身がされるということは想像できない。しかし今、法王の敵が主張していることの一部は、真剣に取り扱う必要があると感じている。
彼らが言うには、ダライラマ法王の永遠の笑顔の下に隠れているのは詐欺師の顔だという。法王によって何千人もの人が屈辱を受け、何十人もの人が暴力の被害にあい、そして何人かの同郷の男女が死に至らしめられたという。これらのことに、法王は個人的な責任があると彼らは主張するのだ。
「こうしたことは」と彼らは言う。「自由意思をもって、宗教的信念に従った人々に対するひどい仕打ちだった」
チベットの宗教と文化は芯から腐り、停滞していると彼らは言う。こんな嘘を鵜呑みにしてしまっていいのだろうか?
手短に答えるなら、ノーである。どうしてこのような質問が、つまり主張が生まれたかを考えると、ダライラマ法王を歴史や文化の文脈の中で捉え直す必要がある。殺害事件が起こった頃、私はダライラマ法王の制度や歴史に関するテーマには、それほど興味を持っていなかった。法王自身の考え方を知るのは私の仕事であり(*筆者はたびたびダライラマ法王にインタビューをしている)、法王の物語以外は詳しく調べないようにしていた。今になって、この驚くべき事件の背景について学び始めたところである。
たとえば、ほとんどの人と同様、ローマ法王がカトリック教徒全体に及ぼす力ほどには、ダライラマ法王が仏教徒全体に力を持っていないことを私は知らなかった。教皇が「使徒継承」を、すなわちキリスト教世界ですべての司教を任命する権利を持つ一方で、ダライラマ法王はそのような主張はせず、権限も持たなかった。ほかのラマを任命することもなければ、指揮することもなかった。僧院においては一般の僧侶の地位しか持たず、その僧院の座主でさえなかった。教義に関していえば、個人的な意見は求められるかもしれないが、それが最終的な解答ではなく、拘束力を持つわけでもなかった。
フリーチベットという言葉が西欧に定着したことはたしかだが、チベットは現代的な意味で正式な国家であったことはなかった。その意味では、中華人民共和国も最近まで国ではなかったことになるが。
個人はそれぞれ、自分が民族的にチベット人だと考えているにしても、チベットの「国民」とみなすことはなく、いわんやダライラマの臣民とは認識しなかった。彼らが常日頃、気にかけていたのはダライラマではなく、宗教そのものだった。
個々のチベット人と慈悲の菩薩チェンレシグ(観音)の化身、ダライラマとの間の関係は、たんなる忠誠関係ではなく、霊的な関係であった。しかし俗世界においては、チベット人は氏族や部族にたいし、忠誠を示さなければならなかった。そしてその氏族や部族は、地元の寺院との結びつきがあり、その寺院がさらにダライラマに忠誠を誓うこともあれば、そうでないこともあった。というのも、寺院はたんなる慈悲と学習の場ではなく、多くの場合、戦う僧兵を擁する政治的な影響力を持っていた。
僧兵たちは地域紛争のなかで捕えられることもしばしばあった。寺院の宗派間の憎悪が増大することもあり、それはときにはプロテスタントとカトリックの間のそれよりも大きかった。
しかし、歴史ドキュメントに記録されたからといって、「ミステリアスな国」というチベットのイメージが傷つけられたわけではないとことは、認識しておく必要がある。いわんや、ダライラマ法王を「オオカミの衣を着た僧侶」と呼ぶ中国のレトリックが正しいといっているわけではない。
その真逆である。
チベットは純粋な天国のような国であったと主張する人々と、チベットは労働者にとって地獄のような国であったと主張する人々の間に、仏教徒がマディヤーマ、中道と呼ぶものを探さなければならない。そうして最終的には、チベット文明が達成したもの、すなわち両方の極端な意見によって描かれた達成されたものについて、我々は注意を払わなければならない。そうすることによって、漠然としたミステリアスなチベットという概念以上にチベット文化を礼賛する理由が見つけられるのだ。
その文学だけをとってみても(その詩の機微を翻訳するのはきわめてむつかしい)、つまりわずかな数の翻訳作品を読んでも、その独創性は驚くべきものである。チベット人の人口は数百万人にすぎないが、そのなかのわずかな知識人によって美しく、深みがある作品が生み出されるのだ。それらは歴史上のあらゆる社会の傑作とも比せられるだろう。
チベット文化は一千年にわたって廃れることがなかったし、それは今後もつづいていくべきものである。しかし現在それは消滅の危機にある。よほどの努力をしないかぎり、そのなみはずれて豊かな民間文化は消えていってしまうだろう。チベット文化とは、すさまじいまでの忠誠と情熱的な献身、贅沢なまでの儀礼と厳かな舞台、過酷な状況に直面しても元気を失わない忍耐強さ、素朴だが、深い力強い信仰の篤さといったものなのである。
仏教と軋轢を起こすのがこの民間文化なのだが、それはチベットの伝統文化に豊かな色を添えていることにもなった。チベット人にとってはビッグバンもなければ、創造のはじまりの瞬間もない。あるのは無限の後退であり、ひとりの創造主のかわりに神々や悪魔の隊列があり、憤怒の守護神があり、炎が燃え盛る、あるいは凍てついた地獄があり、餓鬼と蘇った死者があり、地の精霊や予言者がある。
チベット政府のためにダライラマ法王が占星術をおこなっている、あるいはおなじ目的のために霊媒を使って予言をする神を呼んでいる、といった一般的な見方がある。それはチベットの微細な天文学システムや、高度に発達した(とくに西欧で)かなり人気がある伝統的な医学システム(チベット医学)を下支えするものなのである。
それは公式に認められた黒魔術として使われることもあった。1949年から翌年にかけての中国軍の侵攻に対し、チベットの中央政府は国境地域のいくつかの寺院に、魔物を載せたタントラ爆弾を作るように命じた。それは侵攻してくる敵に向かって投げつけられるのである。
ダライラマ事務所にとっても、民間宗教は中心的役割を持っていた。その守護神はダルマパーラーと呼ばれていたが、ドルジェ・シュクデンもそのひとつだった。チベット人の思考のなかで、仏教伝来以降今日まで、それはチベットの政治にインパクトを与えてきた。しかしつねにそれが温和であったわけではなかった。そしてロブサン・ギャツォの悲劇はこの面から生まれた。
たしかに現代的観点からいえば、チベットの民間宗教はときおりばからしく見えたり、風変わりに見えたりしたが、全体的にはその価値を広く知らしめることができた。それは社会に恩恵をもたらしたが、なかなか得ることができなかったのだ。
あきらかに我々がチベットに惹かれるのは、まさにこの面だった。チベット文化と接するなかで、我々は魔法にかえられた宇宙の一瞬の輝きをとらえることができた。それは現代化によって消失してしまった西欧の民間宗教のもとの姿ともいえた。我々が失ったものがまだここに生きているのである。
1949―50年の中国の侵攻以前、チベットの社会はさまざまな欠点を持っていたかもしれない。しかしあきらかに広く平和で、一般的に人々は満足していた。物質的な充足よりも、慈悲の美徳が重んじられる社会だった。このおなじ社会が、歴史の中で、虫けらのように殺戮しまくるような、互いにひどく残酷な社会なら、少数の誤った行為が多数の代表者ではないことを覚えておくことが肝要である。
この本を書くにおいて、私は原則としてダライラマ法王の「ごく普通の人間にすぎない」という主張を採用したい。実際これは真実であり、前任のダライラマがみな普通の人間であったことも真実である。
ダライラマ制度は並外れたものであり、この本でもこの制度の起源と歴史について述べている。しかし私はダライラマとその前任者について冷静沈着に述べたいが、その世界が並外れたものであることを否定はしない。
形而上学は無意味であるとか、いかなる意味においても克服すべきとか、そういう現代の仮定はまちがっていると私は思う。こうしたことから、慎重にチベット人が伝統的に真実ととらえることと、同時代的な経験主義者の外観との間の境をぼかすことによって、チベット人の物の見方を評価しようとしてきた。
またダライラマ法王が現れた宗教的、文化的、政治的環境を整えながら、チベットをシャングリラとする見方とアナクロ的な荘園制度がある旧態の地方とする見方の間で、また、ニューエイジの偶像として人気が高いダライラマ法王と、メディア・タイクーンのルパート・マードックが描いたように、「グッチをまとった道楽趣味の政治的な老僧」という姿の間で、私は微妙な舵を取ってきた。こうして私はチベットの歴史や文化を描くことによって公正な姿を示すことができると考える。この肖像画はこの男を正確に描いているという自信がある。