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 数十年後、テュアナのアポロニオスは名声を得ていた。ピタゴラスの智慧と東方の智慧をうまく組み合わせ、ギリシア・ローマ時代の哲学の最先端を行く存在になった。彼はなおも旅をつづけた。自分自身が使命を、すなわち宗教的実践の元の純粋さへの復帰という使命を持っていると考えたのである。「私はマスターたちのことを忘れません」と彼は賢者たちに言った。「学んだ教えを旅をしながら広めていきたいのです」

 彼の名声と影響は日増しに大きくなった。都市という都市は彼を呼びたがった。そして祭司たちに儀礼のおこないかたを教えた。(彼が宣揚した改革のなかには、たとえば動物犠牲の禁止があった) 彼は聖者としての標準的な義務の遂行にも忙しかった。たとえばヒーリング、夢の解釈、魔除けの設置など。もちろん教義を教えることや伝道なども重要だった。弟子たちとは世俗的なことや抽象的なことについて論じた。日々の生活の難問から魂の本質まで、何事もこまかく吟味しないことはなかった。

 アポロニオスの言葉とおこないを書き留めるダミスはいつも彼の側にいた。

 逍遥学派(ペリパトス)は話すように歩いていたとされる哲学者の一派である。アポロニオスはその実践を新しい高みへと至らしめた。彼はローマ帝国の端から端まで歩いた古代におけるもっとも偉大な旅行者だった。彼は寺院や旅籠、高官の家を泊まり歩いた。GRS・ミードはアポロニオスが訪れた場所(ナイル上流のギムノソフィスト、すなわち裸の哲学者の隠棲所を含む)をリストアップし、つぎのように述べる。

 

 地図上の彼が歩いた行跡は、いわばアポロニオスの生涯そのものだった。ピロストラトスによって記録された旅のあらすじを読んだ者は、たとえ彼がもっとも不注意な読者であったとしても、男の不屈の精神、また並はずれた忍耐力に心打たれずにはいられまい。

 

 しかしながらアポロニオスはたんなる放浪する哲人ではなかった。彼は皇帝、とくにティトゥス帝、ウェスパシアヌス帝のアドバイザーでもあった。彼は賢明なる支配者の義務についてレクチャーした。皇帝たちは彼のことを注視せざるをえなかった。ティトゥスは言った。「わたしはエルサレムをとらえた。しかしわたしをとらえたのはアポロニオス、おまえだ」

 ほかの哲学者とおなじように彼は本を書いた。ピタゴラスの生涯、犠牲についての論文、占いについての論文などである。(これらは断片すら残存していない) 彼は知的な鋭さを持った哲学者だったが、シンプルで、情け深い人間だった。日に三回、彼は太陽に祈りを捧げていた。

 彼は百歳近くまで生きたという。その頃に至っても彼はエフェソスの寺院――哲学者としての長く輝かしい生涯を閉じるにふさわしい場所――で講義をしていた。

 その生涯に関するいくつかの論評を挙げたい。

 

 預言者にして改革者、褪せることのない偉大さを身につけた男。知識と自己改善と人類にとってよりよいものを求めた男がここにいる。(ハリー・C・スクナー) 

 

 ひとつの概念が宗教上の仲間うちで、あるいは帝国の宗教施設の中で広がろうとしていた。その一部はインドからもたらされた智慧である。(GRS・ミード) 

 

 アポロニオスから私は意思の自由、理解、目的の堅固さ、ほかの何も見ないこと、理由がある場合をのぞき、一瞬たりとも見ないことを学んだ。(皇帝マルクス・アウレリウス) 

 


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