地球内部への旅 14 

キャプテン・シーボーン 

 

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 1818年春、アメリカやヨーロッパの何百もの大学や教養のある社会、また個々の科学者、州の長官、議員らはチラシを受け取った。それには驚くべき宣言が含まれていた。

 

<世界のみなさまへ> 

 私は宣言します、地球は空洞で、そこに居住することができることを。そこには多層の堅固な同心球体があり、入れ子状態になっていて、両極には12度から16度の穴が開いていることを。私は命を懸けて真実を支持します。世界が私をサポートし、援助してくださるなら、いつでも空洞を調査する準備を整えています。

 私は新聞のために『事物の原則に関する論考』を書きました。この中に上記の証拠を示しています。

 私は装備が十分な百人の勇敢なる仲間に、この秋、トナカイが牽(ひ)く橇に乗り、シベリアを出発し、凍てつく海の氷上を滑っていくよう求めます。もし人が住んでいなくても、北緯82度から1度北上した地点に到達できれば、ささやかな野菜と動物に恵まれた、あたたかくて豊かな土地があることを保証します。そしてつぎの春までには戻ってこられるでしょう。

 

 セントルイスから郵送されたチラシの差出人は、ジョン・クリーヴス・シムズなる人物だった。それに添えられていたのは、シムズの善良な性格と健常さを保証する栄誉ある市民たちの手紙だった。

 この扇情的な通知を書いた人物は誰なのだろうか。この文を印刷し、配布する(500部が郵送された)のに要した巨額のお金を出したのは誰なのだろうか。そして本当に正常だと言えるのかと恐れた(理由がないでもない)のは誰なのだろうか。

 ニュージャージー生まれのジョン・クリーヴス・シムズ(17791829)は若い頃陸軍に所属していた。彼は1812年の戦争(*米英戦争)で際立った活躍をし、大尉の地位まで昇りつめた。戦争のあとミズーリの城砦に配置移動となった。そこで彼はある兵士の未亡人(六人の子連れ)と結婚した。最後に彼は任務を辞職し、家族とともに最前線のセントルイスの町へ引っ越した。そこで彼は陸軍や地元のインディアンの需要供給のための交易所を経営した。

 交易所の経営者はたっぷりとある自由時間を享受することができた。シムズは科学や数学の勉強――そして理論公式の研究――に没頭した。彼の公式の教育はとっくに終わっていた。しかし彼は自学に励み、知識を熱心に追い求め、独習者ならではの束縛されない想像力を羽ばたかせた。その結果がチラシであり、チラシは第2弾、第3弾とつづいた。

 しかし交易所の仕事はうまくいかなくなった。そこでシムズは本類をまとめ、家族(さらに四人の子供が生まれた)を蒸気船に乗せ、シンシナティ近くの町に移動した。そして残りの人生を費やした聖戦に身を投じることとなった。とりつかれたかのように彼は地球空洞説を広めようとした。そして遠征隊を組むために、経済支援先を探さなければならなかった。

 


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