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 シムズは新聞に寄稿した(変わり者とみなされながらも人々に影響を与えた)。彼はチラシを発行し、パンフレットを印刷し、手紙を送った。あちこち旅行してまわり、講演をし、寄付を募った。語り手としては十分ではなかったが(「テーマの組み立ては論理性に欠き、混乱し、ドライで、演説のレベルは高くなかった」とある人は嘆いている)シムズの講演は多くの聴衆を惹きつけた。トピックはぞくぞくさせるものだった。彼の仕掛けは――両極に穴が開いた地球儀、回転する砂のボウル、磁石と鉄のとじ込み――劇場のような雰囲気を与えた。実際、聴衆は啓発のためというより娯楽を求めて来るのだった。多くの人にとってシムズの地球空洞説はばかげたものだった。彼はしばしばやじられていた(彼をやじるのは危険だった。実際一度、シムズ大尉はやじった者をレクチャー・ホールからたたき出した)。

 シムズは連邦議会やオハイオ州議会に嘆願書を出し、彼らに遠征隊の費用を出すよう促した。彼は地球内部に人が定住し、米国の一部となりうると信じていたのである(<自明の運命>を満たすために、米国は西方へ拡大するだけでなく、下方へも拡大できると考えた)。連邦議会は実際そのようなプロジェクトを考えていた。1823年、ケンタッキーの下院議員ジョンソンは、連邦政府が地底の領土を主張するため、米国陸軍の元大尉ジョン・クリーヴス・シムズ率いる遠征隊を派遣すべきだと提案した。かなりの支持者を得たものの、提案は評決によって却下された。

 しかし重要な援助が私的な方面からもたらされた。講演に来た聴衆のひとりは、オハイオ州ハミルトンの裕福な住人、ジェームズ・マクブライドだった。マクブライドはシムズの理論に惹かれ、友人となり、彼の遠征に資金を提供したのである。シムズはシンシナティ界隈で講演活動をし、基金を立ち上げていた。彼はいまや範囲を広げていた。マクブライドはまた『シムズの同心球体の理論;地球は空洞であり、中に居住可能、両極には大きな穴』と題するモノグラフを刊行していた。この書は地球空洞説について解説し、熱狂的に絶賛していた。

 この理論は正確にはどういうものだったのだろうか。シムズは、地球は五つないし六つの同心球体から成り立っていると信じていた。空洞の球体のなかに空洞の球体があるのである。(のちに彼は考えを改め、一つの空洞があるだけの球体とした) それぞれの球体は大気に覆われていた。そしてそれぞれは北極と南極に開口部を持っていた。

 開口部は数千マイル四方の面積の広さがあった。海はそこに達すると地中へと流れ込んだ。開口部の縁で水は逆流し、地球の内側の表面(裏側)に落ちていく。(シムズは重力について独特の考え方を持っていた) しかし縁の湾曲は緩やかなものだった。そのため船の乗組員は開口部に入っていることに(少なくとも最初は)気づかなかった。

 この理論の証拠としてシムズは北極で観測される毎年の動物の移動を挙げた。三月か四月、トナカイの群れは氷河に沿って南方へ移動した。魚の大群や鳥の群れも同様に移動した。それらはどこから来て、どこへ行くのだろうか。地球内部から来て、地球内部へ帰るのだとシムズは主張した。より北のほうでコンパスが奇妙な動きを示すのもそのせいではないか。北極に穴があることの証拠ではないのか。

 シムズは考える人であるだけでなく、行動する人でもあった。自分の理論を確かめるために――国に貢献するという意味もあった――彼は遠征隊の準備を整えた。十月、北極地方へ行き、氷河に沿って移動するトナカイを追って彼らがどこへ行くかを観察するのが遠征隊の目的だった。

 極地探検というゴールを目指し、シムズは理論に関する本を出し、基金を作り、政府に援助を誓願することに没頭した。しかし同様に考えた信奉者がいなければ、彼の努力は水泡に帰したかもしれなかった。

 

 


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