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『シムゾニア:発見の航海』からわれわれは何を得ることができるだろうか。それは事実なのか、フィクションなのか。作者は誰なのか。
作品そのものは、「実際に起きたこと」と銘打っている。表紙にも、作者として「アダム・シーボーン船長」とうクレジットを入れている。序言で作者は「知られざる世界を探検し、発見した」と主張している。そして彼は読者に「ナビゲーターとして、あるいは作家として、どちらがすぐれていると思うか」と問いかけている。
しかし実際、彼はナビゲーターだったのだろうか。たんに想像力で誰も行ったことのない水域を探検しただけではないのか。たしかにシーボーン(海の生まれの)船長は海事関係に熟達している。海上貿易、船上の日常、ハリケーンの影響、こういったことの描写は細かく、正確で、知識が豊富であることを示していた。男が海の経験が豊富であることは間違いなかった。ペンで船乗りの世界を生き生きと描くことができた。
彼がシムゾニアに行ったかどうかは別の問題である。自分の主張が信じてもらえないのではないかと彼は恐れていた。実際人々は彼を疑っていた。彼の本は(ひとりの有名人の例外を除いて)ほとんどの評論家からフィクションとみなされていた。一種のユートピアもののファンタジー、発見の航海の風刺と考えられたのである。アメリカの最初のSF小説である。作品は想像力の実践とみなされた。ガリバー旅行記の類のホラ話である。書誌学者は「航海」「想像力」の項目に分類した。
偽名の作者によって虚仮にされたのは書誌学者だけではなかった。彼らが語るに、有力な作者はジョン・クリーヴス・シムズその人だった。すなわち、シムゾニアはシムズ自身の秘密の創造物というわけだった。ほかの誰が熱狂的な物語を作って地球空洞説を唱えようとするだろうか。ほかの誰がシムズを「奥深い哲学者」などと呼ぶだろうか。そして彼以外の誰がユートピアに彼の名にちなんだ名を付けるだろうか。
しかし作者を彼に帰するべきではない。シムズ(Symmes 本書のミドルネームはスペルを間違えている)は作者とは思えない。彼の文章は散文のスタイルと区別することができない。シムゾニアは熟練した作家の作品なのだ。精錬された名文家である。それにシムズは海に詳しくなかった。エリー湖の戦いのときの奉仕活動を除けば、彼はいわゆる陸(おか)者だった。彼の頭から離れなかった彼の理論はこの本にはほとんど述べられていなかった。地球内部はたんにユートピアを設定するには都合がよかった。「奥深い哲学者」の言及に関しても、それに深い意味があるわけではなかった。言い換えれば「変わり者」ということだった。
シムズはじつは熱心なアメリカ拡張主義の支持者だった。彼の考えでは、地球内部は植民地化されるのを待っていた。シムゾニアの作者はそのような強欲さに批判的だった。
もしシムズでないとしたら、誰がこの本を書いたのだろうか。アダム・シーボーン船長とは誰なのか。ペンネームのペンは誰のペンなのか。
ナタニエル・エイムス(1796―1835)ではないかと推測する人もいる。マサチューセッツの議員の息子のエイムスはハーバード大学をドロップアウトし、海の世界へ逃げた。そしてのちに自身の体験の素描を新聞に掲載するようになったのである。彼はシムゾニアも書いたのだろうか。彼は船乗りに必要な知識は持っていた。この本に述べられているさまざまな場所を実際に訪れていた。彼の文章にはしばしば皮肉が込められていた。しかし彼とシムゾニアを直接結び付けるものは何もなかった。証拠となるものは付随的なものにすぎなかった。そして何と言っても、エイムスの文章は洗練されているとは言い難かった。野暮な文章しか書けなかったのである。
それでは誰がシムゾニアを書いたのか。結局のところわかっていない。この本はささやかな古典文学、アメリカ文学の宝である。しかし作者については謎のままだった。
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