ソロモン 地球内部への旅 15 

サン=ティーヴ・ダルヴェードル 

 

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 1886年、マルキ・ジョゼフ・アレクサンドル・サン=ティーヴ・ダルヴェードルは自費で『ヨーロッパにおけるインドの使命』と題された著作を出版しようとしていた。ところが印刷業者から著書が届くやいなや、彼はそれらを破棄してしまった、たった一冊をのぞいて。サン=ティーヴが友人に明かしたところによると、インドから秘密を明かすなと脅迫されたのだという。著書の再版が出たのは彼の死後の1909年になってからのことだった。

 サン=ティーヴ・ダルヴェードルとはだれなのか? そしてこの著書で明かされる秘密とは何なのか? この著書の巻頭の献辞はつぎのようなものだった。

 

子羊と雄羊の周期における古代の都パラデサの当代のブラハトマである七つの冠の教皇冠を戴くローマ教皇へ 

 

 1842年、彼は精神科医(あるいは当時その種の医者が呼ばれていたようにエイリアニスト)の息子としてパリに生まれた。秀でていたが反抗的だった若きサン=ティーヴは父親によって学校をやめさせられ、輝かしい学者たちから個人教授を受けた。その後短期間だが、医科大学で勉強をつづけることができた。ロンドンでは長い時間をすごした(大英博物館ではとりとめなく読書に時間を費やした)。露仏戦争がはじまると兵士として従軍した。そして内務省に下級官吏の職を見つけた。

 下級官吏の仕事を得ることによって、彼はつつましい生活を送ることができるようになった。しかし時間を見つけると彼は幅広い読書に当てた。また彼は詩やエッセイ、海藻類の農業への活用についての論考などを書いた。三十代半ばになって、彼は伯爵夫人と結婚した。結婚は恋愛によるものではあったが、それによってサン=ティーヴは経済的に独立することができた。彼は下級官吏の仕事を辞し、学術研究と執筆に身を捧げることができるようになり、著作のもととなる文章を書くことができた。さらに幸運だったのは、伯爵夫人の尽力によってマルキの称号を得ることができたことである。

 今日、ほとんど忘れ去られたとはいえ、当時、サン=ティーヴは毀誉褒貶相半ばする著名人だった。政治的哲学者として、またオカルティストとして、非常に著作の多い作家だった。哲学者として彼はシナーキーと呼ぶ体系を提唱した。シナーキーとは、賢くて温情深い人々のエリート・グループによる政府のことである。この賢者たちは規格外の力を持っていた。ただし表面には見えない、裏からの支配だった。彼らの規則は権威をもとにしていた。権限のある地位の人々は彼らに導きを求めた。このようにシナーキーは、すなわち社会秩序を選挙を経ないエリートに委ねる体系は、きわめて反民主主義的だった。政治理論とオカルトを結びつけた著作のシリーズで、サン=ティーヴはこの理論を深め、促進していった。

 そして1885年、オカルトの謎を解くため、彼はサンスクリットを学ぶ決心をする。この目的のため彼はひとりの教師、ハッジ・シャリフという名の神秘的な東洋人と契約を結んだのである。[この人物は、アフガニスタンの王子とも、セポイの反乱のあとインドから逃げてきたバラモンとも噂された] 古代の智慧を持ったシャリフ自身は、自分のことを「偉大なるアガルタ学派のグル・パンディット」と称していた。シャリフの説明によれば――サン=ティーヴはシャリフのもとに移り住んでいた――アガルタとは地下にある王国だった。王国はヒマラヤ山脈の地下深くにあり、賢者によって統治されていた。

 そしてこの教師が「人類普遍的オカルト政府」から送られてきたことに彼は気づきはじめた。シャリフの使命はアガルタの存在を明かし、その精神的な、政治的な仕組みを詳しく説明することだった。サン=ティーヴは熱心に耳を傾けた。

 サンスクリットの授業と神秘主義の教えは1年半にわたったが、ふたりの間にいさかいが生じた。スピリチュアリズム(心霊主義)について論じているとき、グル・パンディットはナイフで自分の生徒を脅したのである。サン=ティーヴは彼を家から追い出し、シャリフはパリから姿を消した。(何年ものち、彼はルアーブルにいることが確認された。彼はエキゾチックな鳥を売る商人となっていた) 

 しかし神秘的な東洋人は使命を全うした。アガルタのことが頭から離れなくなったサン=ティーヴは、聖者からのメッセージをテレパシーで受け取るようになったのだ。そして彼はアストラル体としてアガルタへ旅をするようになった。こうした交流や夢の旅によってシナーキーの原理がたしかめられることとなった。また本を書きたいという意欲が高められることになった。

 『インドの使命』のなかでサン=ティーヴはアガルタ王国とその政治機構について詳しく述べている。アガルタは地球内部の「隠されたユートピア」だった。より進んだテクノロジーを持ち、エキゾチックな建築物を建てた。[主要な建物はコロッサル様式の寺院であり、それは賢者たちが神秘主義を謳歌する地下ドームだった] アガルタの住人は人類の起源の言語、ヴァッタニア語を話した。彼らはみな菜食主義者だった。彼らは健康的で、しあわせだった。

 彼はアガルタを統治する賢者たちのヒエラルキーについて聞かされた。その頂点には教皇が君臨し、それを補佐するのはマハトマとマハンガである。議会には12人のアルチが坐った。また360人のバグワンダ、5000人のパンディットがいた。いわば聖者たちの「聖なる大学」によってアガルタは統治されていた。彼らは地表の世界にも興味を持ち、そのパワーを使ってネガティブなエネルギーと戦っていた。そしてときには使者を送って気まぐれな地表の住人に指示を与えた。

 教皇は(著書は教皇に献じられている)宮殿に住んでいた。聖者たちが閲覧することのできる図書館には人類の智慧すべてがつまっていた。何マイルも連なる本棚を誇るアガルタ図書館は古代の智慧の蔵だった。智慧の多くはアトランティスから来ていた。というのもアガルタの住人の多くはアトランティスからのがれてきた難民だったのである。

 サン=ティーヴは何度もアガルタを訪れた。それはアストラル界を通る旅、すなわち彼が「同調」と呼ぶ肉体離脱のテクニックを用いての訪問だった。『インドの使命』のなかで夢の中で訪れた王国を描いている。そして彼は同様の社会を西欧にも建てることができると主張している。しかしまず、キリスト教がその教えを進めていかねばならない。(サン=ティーヴは熱心なカトリック教徒だった) 政府はシナーキーの原理を基礎としなければならないと彼は考えた。なぜならシナーキーは社会の病巣を癒すことができるからだという。

 シナーキーの社会は権威ある者、富ある者、精神性の高い者という3つの評議会によって統治される。賢者によって構成されるこれらの評議会は間接的に社会を支配する。モラルの権威によって彼らは「政府のような存在」を指導し、鼓舞する。そしてこうした教育の結果、階級闘争やその他の社会病理は姿を消すことになる。サン=ティーヴはこれら力ある者にたいして警告を発している。「おお、ヨーロッパの皇帝や王たちよ、共和国の大統領たちよ。だれにもはばまれない最上位の人たちよ。あなたがたの国民や権力階級、諸勢力は互いに破壊しあう運命のもとにある」

 このようなシステムが実際に機能するだろうか。それはすでに存在している、と彼は宣言する。中世ヨーロッパにおいて、テンプル騎士団は政治的、経済的、宗教的生活を統率していた。これは実質的にシナーキーであり、中世の数世紀が西欧のもっとも高みに達した時期であったという。

 彼の死後、晩期の著作が『L’Archéomètreというタイトルのもとに出版された。アーケオメトリーとは「すべての宗教、すべての古代の聖なる科学の鍵となるもの」だという。シンボルと解釈の複雑なシステムによって宇宙の原理が「測量」される。この測量のために使用されたのがプラニスフィアと呼ばれる厚紙盤だった。サン=ティーヴが特許を取ったこの装置には、ゾディアックの黄道十二宮やアトランティスのアルファベット、音楽記号、色彩などが含まれていた。人がプラニスフィアに哲学的、精神的な質問をすると、答えが返ってきた。進歩した人々のためのいわばウィジャ盤(こっくりさんに類似したもの)だったのである。

 さて、われわれはマルキ・サン=ティーヴ・ダルヴェードルをどうとらえるべきだろうか。とくにアガルタに関する彼の主張について。彼は本当にそこへ行ったのだろうか。本当にアガルタの聖者からメッセージを受け取ったのだろうか。プラニスフィアは機能するのだろうか。

 彼を精神異常者だと考える人々もいる。(精神科医だった彼の父親は「精神病患者のなかで私の息子はもっとも危険だ」と語ったという) 彼のことを詐欺師と呼ぶ人もいれば、変人とみなす人もいた。しかし彼が書いていることから考えると、彼は正常であり、誠実であり、まっとうな思考の持ち主だった。彼は真摯な知識人であり(レジオンドヌール勲章をもらっている)フランスの上流社会に出入りしていた。だから、アガルタ訪問がどれだけ奇異に見えようとも、真剣にそのことについて考えるべきなのである。

 この訪問は正確にはどういったものだったのだろうか。たんなる夢だったのか、深層において興味を持っていたものを表現したのか。あるいはリアリティをもった幻視体験だったのか。それとも実際に旅行したのか。

 言い換えるなら、サン=ティーヴは地球内部を訪れたのか。あるいは内なる自己の深層を探ったのか。

 アガルタは、結局、どこにあるのか。

 

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