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 ヒューゴ・ガーンズバック(18841967)は1904年に米国に到着した。電気技師であった彼は自分が発明した乾電池を市場に売り出そうとしていた。特注のスーツと高価なシャツに身を包んだ彼のトランクには2本の乾電池のパックが入っていた。

 なぜガーンズバックは故郷のルクセンブルクを離れ、米国に来たのだろうか。自伝のなかで彼は説明している。

 19歳になり、自分自身に、そして無線と電気の未来に確信を持っていたヒューゴは、ガチガチの保守層や昔ながらの因習によって、はばまれたり、妨げられたりすることのない国に行って、羽根を広げ、得たいものを手に入れたいと考えた。この決定を下すのに躊躇することがないほど彼の意志は強く、かたくなだった。

 ガーンズバックはラジオ用品店の経営者としてニューヨークに落ち着いた。その後の何年間か(ヨーロッパから仕入れた)ラジオ用品を販売し、たくさんの発明からパテントを取り、そうして雑誌を発行した。

 この雑誌はラジオ用品店のカタログが発展したものだった。ラジオはまだ鋳掛屋(金属修理)の領域だった。そしてこのカタログ(試してみたい人のために何でもありと銘打つ)はかれらの仕事の一部だった。ガーンズバックはまた家庭用ラジオを自分でデザインしていたが、カタログを通じてそれを販売していた。

 規則的に発行されたカタログは64ページの長さで、イラストがたっぷりはいっていた。顧客にラジオの基本を教えるために、ガーンズバックは記事も掲載した。そして1908年、彼はさらに一歩踏み出し、「モダン・エレクトリクス」という名の雑誌の第1号を発行したのである。

 「モダン・エレクトリクス」はガーンズバック自身によって書かれ、編集された。発行の目的は、人々にラジオにたいする興味を持たせるということだった。家庭での需要が高まれば、売り上げも伸びるはずだ。雑誌だけで採算がとれるなら、こんなにいい話もなかった。雑誌にはラジオのすべてのことに関する記事が載った。とくにハウトゥーものの記事は評判がよかった。

 雑誌は読者を獲得した。それは彼の出版人としてのキャリアの第一歩となった。1908年から1952年の間にヒューゴ・ガーンズバックはおよそ50の雑誌を創刊した。それらは基本的にエクスペリメンター・パブリッシング社の、のちにはガーンズバック・パブリケーションズ社のオフィスで編集された。それらの多くには技術関連のタイトルがついていた。たとえば「ラジオ・ニュース」「プラクティカル・エレクトリクス」「エレクトリカル・エクスペリメンター」などである。ほかにも「サイエンティフィック・ディテクティブ・マンスリー」「パイレート・ストーリーズ(海賊物語)」「セクソロジー(性科学)」などがあった。

 そしてもちろん50のうちにはサイエンス・フィクション雑誌もあった。

 ガーンズバックは自らのテクノロジー雑誌を通してサイエンス・フィクションに行き当たったのである。1911年、彼は「モダン・エレクトリクス」を発行した。それに掲載された記事のなかにサイエンス・ロマンスが混じっていた。テクノロジーの未来の推測であふれるような文章だが、これを書いたのはガーンズバック自身だった。このような推測は彼の編集のなかでは一般的だった。しかしこうしてガーンズバックやその他の著者によって書かれた推測フィクションは、彼のラジオ雑誌やエレクトリクス雑誌に定期的に掲載されるようになった。

 未来予測はガーンズバックが得意とするものとなった。たとえば彼は「エレクトロニック・ドクター」を考え出した。患者はコンベヤーベルトによって運ばれ、さまざまな診断マシーンの前を通過するのだ。軌道上のドーム型都市なんかも彼が描き出したものである。彼が出版した物語は、科学やテクノロジーの進歩予測に関するものだった。彼は発明のアイデアをさらに進めた。発明からさらに先の発明を予測したのである。

 10年以上の間、ガーンズバックはサイエンス・フィクションを掲載した雑誌を発行しつづけた。その間にひとつのアイデアが芽生えてきた。それは「この種のフィクションだけで雑誌はつくれないものだろうか」というものだった。

 彼はこの雑誌を「サイエンティフィクション」と呼んだ。


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