(5)
レイ・パーマー(1910-1977)はミルウォーキーに生まれ育った。7歳のときにトラックにひかれ、重傷を負った。背中を破壊した事故は、根底から彼の人生を変えた。成長するにしたがい背中のこぶは大きくなった――背は4フィート(120センチ)しかなく、小鬼のような容貌で、足をひきずって歩いた。
しかしながら事故にポジティブな面もなくはなかった。年少の頃の大半をパーマーは病院か自宅のベッド上で過ごすことになった。学校に通うことができなかったので、家庭教師から教育を受けた。またミルウォーキー州立図書館が毎週本をどっさりと送ってくれた。ベッドという監獄で彼はこの大量の本をむさぼるように読んだのである――ときには一日に12冊の本を。こうして彼は貪欲な読者となり、独学者となったのである。
15歳になるまでにパーマーは学校に通えるようになった。ミルウォーキーの聖アンナ教会学校での彼は自らが言う「ローンウルフ」(一匹狼)だった。同級生の子供たちとちがって、彼は読書を強要される必要がなかった。
一年後、彼はニューススタンドで雑誌を拾い読みしていた。そのとき彼の目をとらえたのがある雑誌の表紙だった。「アメイジング・ストーリーズ誌」の第1号である。パーマーはそれを買い、表紙から裏表紙まで読んだ。そしてファンになった。雑誌の熱烈な読者になったのである。彼は内容について書いた手紙を何通か送った。そして彼自身物語を練りだした。英語のクラスのために書いた「ジャンディアの時間光線」という物語である。おおいに満足する結果を彼は得た。それは雑誌に採用され、彼は40ドルの小切手を受け取った。物語を買ったのはヒューゴ・ガーンズバックだった。(ただし掲載されたのは数年後のこと)
高校卒業後、パーマーはビジネス・カレッジに通った。その後板金製作会社の帳簿係の仕事を得た。しかし彼が本当に興味を持っていたのは――情熱をそそいだのは――サイエンス・フィクションやその他の大衆フィクションを書くことだった。夜、わびしい賃貸の部屋で彼はものを書いた。しだいに彼は売れっ子になり、さまざまなパルプマガジンに書くようになった。彼は友人たちとともにサイエンス・コレスポンデンス・クラブというSFファンの組織を旗揚げした。そしてコメットという名のファン雑誌を――謄写版印刷で大量に――出版した。
1938年、ジフ・デーヴィスはアメイジング・ストーリーズ誌を獲得し、新しい編集者を探した――SFに通暁しているだれかを。パーマーはSFファンの間ではすでに名声を得ていた。彼はジフ・デーヴィス社からのオファーを受け入れ、シカゴに移った。
彼は瀕死の状態にある雑誌のかじ取りを任せられたことに気づいた。サイエンス・フィクションは科学的で教育的というイメージがつき、もはや流行おくれだった。アメイジング・ストーリーズ誌に活力を与えるため、行動と冒険の物語を宇宙の決闘や絶体絶命の少女、虫の目のモンスターなどに変えた。そのような話が書ける作家を彼は探した。彼自身の小説も(ペンネームで)掲載して出版した。熟練したイラストレーターらとも契約した。パラノーマルに関するシリーズを掲載した。いきいきしたエディトリアル(論説)を書いた。こうして1万5千部だった発行部数は13万5千部にまで増えた。
そしてゴミ箱から拾い上げた投書のおかげで部数はさらに飛躍的に増加することになった。
⇒ つぎ