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 賛否両論となったのは、彼のデビュー作『第三の眼:あるチベット・ラマの自伝』(信頼のおける英国の出版社シーカー&ウォーバーグ社から1956年に出版)だった。出版への道は平坦ではなかった。ランパ(あるいは当時知られていたように、クオン・スオ博士)に適切な印税の前払いをしながら、シーカー&ウォーバーグ社は著作の真正性に関して疑念をいだきはじめていた。彼らは著作を専門家に鑑定してもらうことにした。

 結果は失望させるものだった。あるチベット学者の意見によれば、「著作は出版された本をもとに、豊かな想像力で細部を描いたフェイク」ということだった。別の専門家は宣言した。「この人物はまちがいなく詐欺師である。彼はチベットに行ったこともない。彼は招待を明かすべきである」。『第三の眼』が偽作であることは、だれもが認めざるを得なかった。

 何年ものち、鑑定をしたひとり、アガハナンダ・バラティは著作に触れたときの印象について述べている。

 

 私は包みを開ける前から疑っていました。『第三の眼』はブラヴァツキー夫人の、あるいはポスト・ブラヴァツキー主義の剽窃ではないかと。最初の2ページを読んで作者はチベット人ではないと確信しました。つぎの10ページを読んで作者はチベットにもインドにも行ったことがないこと、チベットだろうとほかのどこであろうといかなる形の仏教も知らないであろうことを確信しました。どのページを開いても、作者がチベットやほかの場所の仏教の実践や信仰体系について何も知らないことを確信しました。しかしこの本が抜け目なく、直感的に、何百万もの人々が聞きたがっていることを示していたのもたしかなのです。

 

 出版人のウォーバーグはランパをオフィスに呼び出した。疑いを確認するために彼はいくつかのチベット語の言葉で作者を出迎えた。ランパはポカンとした表情を浮かべた――それから首を激しく振り、頭を抱えた。彼が説明するには、戦時中日本軍にとらえられ、捕虜となったが、尋問からのがれるため、母語を忘れるよう自己催眠をかけたというのである。

 ウォーバーグはこのとんでもない言い訳を聞いて目を白黒させた。そして専門家たちの評価結果を明らかにして、彼は提案をした。シーカー&ウォーバーグ社は本を出版するだろう――ただしフィクションとして。あきらかにそれはフィクションだった。ランパはしかし憤然とした。自身も『第三の眼』も真正であると主張し、彼は申し出を断り、立腹したまま去ったのである。

 しかし断念するにはあまりにそれは売れ筋だった。シーカー&ウォーバーグ社は矛を収め、『第三の眼』を自伝として出版した。しかしながら自らその真正性を否認することになった。出版社の前言で、読者は警告を受けたのである。

 

 チベットのラマの自伝は特殊な体験の記録です。その信憑性を検証するのは困難だと言わざるをえません。作者の主張を裏付けるために、出版社は20人近くの読者に原稿を送り意見をききました。彼らはみな知識を持った経験豊富な人々であり、何人かはこの分野の専門家です。しかし彼らの意見は互いに矛盾するばかりで、肯定的な結果を得ることはできませんでした……。

 ランパとは個人的な話し合いの場を重ねました。そうして彼がなみはずれたパワーを持ち、才能を有していることがわかったのです。プライベートの面について言うなら、彼は人を当惑させるほど寡黙な人間です。しかしだれもがプライバシーの権利を有しているので、それ以上のことは言いません。

 こうした理由から作者は、この本の中の言っていることにたいして、ただひとり「喜んで」責任を負わなければなりません。

 

 このあとにつづくのは「著者の序言」である。そのなかでランパは読者につぎのように呼びかけている。

 

 ここに描かれていることは信じることができない、と言われました。信じるも、信じないも、あなたの権利なのです。

 

 

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