(4)

 ランパは当時ダブリン湾が見渡せるヴィラを借りて住んでいた。(彼はチベットのパスポートか居住許可証の提示を求めていた英国当局を避けてアイルランドに移り住んでいた)。病気だと言い張る著者はヴィラを急襲した雑誌記者たちと会うのを拒んだ。しかし彼の妻は(のちに間違って引用されたと主張したが)デイリーメイル紙に「本はフィクションです。彼はずっと職を探していたのですが、うまくいきませんでした。生きていくために私たちにはお金が必要だったのです。それで彼は本を書くよう説得されたのです。お金が得られるかどうかは、本の売れ行きにかかっているのです」

 話は他の新聞にも掲載され、「にせラマ」は嘲笑とののしりの矛先となった。デイリーメイル紙はかつてランパに会ったというテレビプロデューサーにインタビューをした。「普通の知識人であれば彼がチベット人とは思わないでしょう」とプロデューサーは言った。「彼は紳士に見えます。無害で、孤独で、自らが設定した奇想天外な役割にとまどっているようです」。

 シリル・ホスキンに関するもっと多くの事実が浮かび上がってきた。彼は1910年にデボンシャーに生まれ、父親の配管工の店で見習いをした。そして最近通信教育学校の職員となった。同僚によると、ホスキンは突然「東洋人になった」という。頭を剃り、名前をクオン・スオに変えるなど、東洋文化にとりつかれた。彼の奇妙なふるまいによって人が近づかなくなった。ホスキンはこうして仕事をやめ、フリーのジャーナリストになった。

 メディアと直接話すのを拒んだため、これ以上ランパに関する情報は出てこなくなった。アイルランドにおける彼の家族は妻サラとシーラグ・ラウスという秘書として働く女性と数匹のシャム猫だった。

 

 


⇒ つぎ