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 こうした法的な問題によって彼は人生の軌道を修正することになった。はじめ、彼は単純な健康的ダイエットの提唱者だった。いまや彼は、検閲と弾圧をおこない、強力な勢力と共謀する政府に迫害されながらも、立ち向かう十字軍の戦士だった。彼らの手に捕まらないように(商業主義と物質主義のモロク神の手にかからないように)、彼は米国内だけでなく、中米や南米各所をあちこち歩き回るようになった。

 彼は小冊子の執筆と刊行をやめることはなかった。しかし偽名を用いざるを得なかった。郵政当局はアメリカ食品医薬品局のために彼の名をリストに載せていたのだ。ウォルター・シーグマイスターは健康食品や印刷物を送るために米国の郵便制度を用いることが許されなかった。

 彼の長旅は1940年のパナマへの旅ではじまった。彼はここで自然回帰コミュニティと関わることになった。つぎの旅先はエクアドルだった。彼はここにフルータリアン(フルーツ食主義者)コロニーを創設しようとした。その公にされた目的は、フルーツやナッツ、ヨーグルトのみのダイエットによる「再生」と、新しい人類の種族の創造だった。訪問したジャーナリストの表現を借りるなら、シーグマイスターは「コロンビア大学、ニューヨーク大学から三つの学位を授与された、優生学、生化学、内分泌学のよく知られた研究者」だった。そして彼は「いままで見たなかでもっとも尋常でない目を持っていた。それは茶色で、並外れて大きく、深く、人をひきつける容赦ない火を浮かべていた。しかしその物腰はやわらかく、威厳に満ちていた」。

 しかしこのコロニーも長くはつづかなかった。わずかなコロニストたちも散っていくことになった。そのひとりは、自称ジョニー・ラブ=ウィズダムだった。ラブ=ウィズダムは(彼はレイク・イストクポガ・コロニーにもいた)独自に健康食品の十字軍戦士になろうとしていた。

 

 


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