亡魂送りの山
西北インド・キナウルの死の習俗
死者の数ほど旗が立つ。
未明の3時半から4時頃、漆黒の静けさを破り、咽び泣きが響き渡るなか、遺族が立てるのだ。
夜が明けて、こんな断崖絶壁の端であったことを知った。
1 パンギ村のダクライニ祭
死後、人の魂はどこへ行くのか。キナウルに何度も足を運んだのは、多様な死者儀礼を持つキナー・カイラス山で魂の行方について調べるためだった。しかし私にとって死者とは、年を取り往生を遂げた人々のことだった。
「パンギ村の女の子が先月、自殺したんだ。擬似結婚式の花嫁に選ばれた女の子だよ」。
カルパ村の友人がそう言ったとき、背後から突然冷たい水をかけられたかのように感じた。何か悪い冗談でも言っているのかとさえ思った。
一年前の2007年7月中旬、パンギ村(標高2600m)からピリ山の上のコタンのある場所(標高4200m地点)に登り、歌い踊りながら、弔いの旗を立て、一年以内に亡くなった人々の魂を送るダクレーニ祭に参加した。山頂で夜を明かし、二日目の正午頃、山を下りる途中で擬似結婚式(Mock Wedding)というプログラムを人々は楽しむ。たとえば「犬の結婚式」という設定で徹底的にパロディの世界を作り出して、演じたり踊ったりするのだが、選ばれた新郎新婦はそれなりに嬉しくもあり、近未来の自身の姿を想像して恥ずかしくもあるのだ。
去年選ばれた花嫁はふたりだった。ふたりとも模擬結婚式にすぎないことを忘れてはしゃいでいた。私は記録係に徹し、ビデオカメラを回しながら、こんなに幸福そうな人々を見たことないな、と思った。
このうちのひとりが毒を仰いで自殺したというのである。
去年撮った写真を友人に見せ、死んだのがどちらか、確認することができた。まだキナウルの行政の中心、レコン・ピオにある単科大学の23歳の学生だった。なにか一途なところがある女の子という第一印象を私は抱いていた。
後日、私は彼女の花婿を務めたマヌに思い当たる節があるかどうか尋ねた。マヌはかなりのイケメン青年であり、もしかすると彼女とのあいだで色恋沙汰でもあったのではないかとふと思ったが、口に出したりはしなかった。彼の答えはまったく予期しないものだった。
「それが……、彼女のことはほとんど知らなかったんだ。去年のダクライニ祭以降会うこともなかったし……」。
ほかの人々にも尋ねたが、自殺の動機はわからなかった。もし知っていても、しゃべるのはタブーだったのだろう。なにしろ死を選んだのは前の月のことなのだから。
だから具体的なことを知っているわけではないのだが、一般的にキナウルでは死後火葬したあと、その灰を聖地ハリドワルに持って行き、ガンジス川上流に流す。キナウルは北へ行くほど仏教(チベット仏教)の影響が強く、南へ行くほどヒンドゥー教の影響が強い。ハリドワルで灰を流すのは、ヒンドゥー教の習俗である。
死後その魂はキナー・カイラス山系のラルダン(Raldang)からヤマの世界、すなわちあの世へ行くという。ヤマはいうまでもなく閻魔のことだが、元来ヤマは地下世界に君臨するとはかぎらず、このヤマの世界も漠然と天上世界のどこかにあるようだ。
パンギから南へ20キロほど下ったチャガオン村はキナウルで唯一、ラルダンへの道を歌いながら亡魂をあの世へ導く習俗をもっている。チャガオン村のウキャン祭については第2章で述べたい。
じつはもう何年も私はラルダンがキナー・カイラス山系の南端のとんがった峰だと勘違いしていた。チベット人やチベット・ビルマ語族の多くはこういう峰から魂があの世へ行くと信じているのだ。しかしこの峰にはパルヴァティ峰という名前があり、ラルダンとは別物だった。ラルダンはパルヴァティ峰の北側、万年雪から水が流れ出すあたりを指すという。先入観に加えて、評価の高いガイドブック『Exploring Kinnaur & Spiti』の記述を盲目的に信じたために犯してしまったミスだった。
あの世へ通ずるのは山の頂上ではなく、万年雪の溶け出すあたり。これはいったいどういうことなのだろうか。万年雪は永遠性のシンボルなのだろうか。祖先らが永遠に住む場所を暗示しているのだろうか。そうだとすると、あまりに寒々しいように思えてならないのだが。
自殺した彼女の魂はいったいどこへ行くのだろうか。そもそも自殺者が通常の死を迎えた者と同列に扱われるかどうか、危惧せずにはいられなかった。しかしどうやらピリ山ではほかの死者と同様、旗を立て、魂を送り出すようだった。
7月中旬、またダクライニ祭の季節がやってきた。前年は遺族組と非遺族組の二手に分かれるということを知らず、遺族組にまじって登ってしまった。一年以内に家族を失った人々は、当然歌ったりはしない。粛々と急斜面を上がり、早めに標高4200m地点に到達する。かなりの急勾配で、這うように登り、6時間余りを要した。
ピリ山を登る 今回は非遺族組。ゆっくりと、楽しみながら登ることができる。しかし登山開始一時間半で、思いがけない事態に直面した。突然激痛が大腿部に走ったのである。痛い、なんてもんじゃない。かつて瀕死の重傷を負ったこともあるが、それをも凌駕するような人生最大の激痛といってもいい。数分間痛みがつづいたあと、数秒間おさまる。と、また激痛がぶりかえす。そういう拷問のような時が半時間以上、おそらく40分くらいつづいた。
戦争映画のワン・シーンを思い出した。銃弾を受け、苦悶する兵士が仲間に「頭をぶち抜いてくれ」と懇願する。このときもし誰かが銃を持っていたら、躊躇なく撃ってくれと頼んだだろう。それほど痛みが激しかった。
あとで聞いた話では、ひとりの青年がとっさにプジャ(儀礼)をおこなったという。たしかにだれかがマントラを唱えているのを聞いたような気がした。痛みは徐々にひいていき、大腿部にしこりは残るものの、激痛がもどってくることはなかった。しかし立ち上がることはできない。登山どころか、下山することすらできそうになかった。一時間ぐらい休んで、なんとか村まで下りようと考えた。
何十人もの村人が心配そうに見ながら、通り過ぎて行った。彼らは私が神の許しもなくキナウル帽に花(ドライフラワー)を挿していたので、神の怒りを買ったのだと噂していたらしい。この神は村の神シシェリンか、あるいは山の妖精ジョギニのことだったかもしれない。祭りの参加者は二日目、下山するときに花を摘み、キナウル帽に挿す。それを初日からやってしまったために、神罰が当たったというわけだ。とはいえ、当日の朝、知り合いの家のお母さんがわざわざ挿してくれたものだったのだが。
合唱する女たちプジャの効能というのか、思いのほか回復が早かった。ためしに一歩一歩踏み出したところ、なんとか歩けそうだった。女性たちは少し登っては草の上に腰掛け、青々としたキナー・カイラス山に向かって歌をうたった。このペースが私にはちょうどよく、8時間かけてコタン(石積み)のある4200m地点にたどりついた。先に到着していた人々は、私の姿を見て死者が蘇ったかのように目を丸くして驚いていた。
女性らは歌いながらコタンの横の広場のような場所に入り、踊りながら輪をなした。男たちがそれに加わり、輪は次第に大きくなり、踊りも激しく、リズミカルになっていった。歌は先祖を讃える内容だった。
手の組み方がグゲ式キナウルの踊りは特徴がある。右手は二つ前の人の左手を持ち、左手は二つあとの人の手の右手を持つ。つまりすぐ前と後ろの人の手は結ばないのだ。この踊り方は、グゲの宮殿の壁画にも見られるという。グゲ王国(10世紀−17世紀)の王統はヤルルン朝(吐蕃)の血筋をひいているものの、立地的には古代シャンシュン国(?−8世紀)の文化要素を踏襲している。キナウル語はシャンシュン語に近いといわれるが、こういうところにもシャンシュンの匂いが感じられるのである。
この広場のような場所からは360度ぐるりと見渡すことができた。下のほうから雲海が上がってきてあたりをすっぽり覆い、真っ白の世界になったかと思えば、さあっと引いてまぶしい青空が現れた。まるで雲上の天上人になったかのようだった。陽が傾きかけると、輪をいくつも重ねた曼陀羅状の虹が雲の上に架かった。
円輪の虹が出た陽が沈んでからも人々は歌い、踊り続けた。『マハーバーラタ』や大乗仏典『無量寿経』に出てくる半人半獣の歌舞神キンナラ(Kinnara)は、彼らキナウル(Kinnaur)人の祖先にちがいないと次第に確信を強めていった。
暗闇が世界を支配すると、真夏とはいえ気温は急降下し、踊るのでなければ、焚き火近くに貼りつくしかなかった。前年は午前2時ごろから小雨が降り始め、遊牧民用のシェルター小屋に避難した。しかし立錐の余地がないほど込み合い、しかも地面は濡れていた。今回は雲ひとつなく、星が満天に輝いていたが、風はすさまじく強く、火に近い胸は焦げるほど熱いのに、背中は凍傷になるかと思われるほど寒かった。厚着をしているのに凍え、あのイケメン花婿のマヌにショールを借りてからだにぐるぐる巻きし、寒さをなんとか凌ぐことができた。
夜のしじまにかそけく響く歌声と大地を踏み鳴らす音が強風に流される。
と、突然ざわざわと人の声がする。未明の3時半。旗を立て、供え物をする厳粛な時間がやってきたのだ。崖のコタン(石積み)に人々は3mほどの旗と果物や肉、菓子、故人ゆかりの物などの供え物を運ぶ。コタンの向こうは数百メートルの断崖絶壁だった。私がコタンに少しでも近づくと、だれかが制止した。死者と生者の境界がコタンのこちら側にあり、遺族以外はそれを越えてはならないのだ。
だれがだれの死を悼んでいるのか、もはや区別つかなかった。しかしこのなかに23歳の女性の死を嘆く声があるのだろう。また死者のなかにはもうひとり若者が含まれていた。25歳前後の印象的な顔立ちをした青年が、出稼ぎネパール人と酒の席で喧嘩になり、ナイフで刺されて死亡したのである。犯人のネパール人は逃亡し、いまだに捕まっていない。こんな小さな村で、一年のうちに若い死者がふたりも出てしまったのはとても悲しいことだ。
暗闇のなかに立っているとき、数分間だれかが隣りに立っていた。しかしふと横を見ると、そこにはだれもいないことがわかった。死者と生者の境はこのように膜のように薄いのだ。
石積みのコタンと旗白々と夜が明ける。空気が薄いせいか、山肌の茶褐色、天空の瑠璃色が痛いほど鮮やかだ。亡霊が隠れる場所はもうどこにもない。死者たちに捧げた旗が翩翻とひるがえっていた。村人たちは緊張感から解放され、なごやかな雰囲気で山の斜面を上り、標高4350mの広大な景色のなかに入っていく。ここでは男女が分かれていく。女性たちは左のほうへ、男性は右のほうへ進む。
男たちはまた歌いながら、すさまじい速度で駆けっこをしているみたいに輪になって踊る。そのあとふたりずつ組になって草原に走り出し、「まぐわい」の動作をする。前年はこのシーンになると「写真は撮るな、ビデオもだめだ」と諌められた。ホモの儀礼のようだと思われたくなかったのだろうか。しかし今回はだれからもとがめられることなく、撮影することができた。
男同士でまぐわい?
女だけの歌舞
こうしているあいだに女性たちは隊列を組み、キナー・カイラスの山並みを背景に合唱していた。「まぐわい」を終えたあと、男たちは女性たちのなかに入り、二つに分かれ、向かい合って、押し合いをするように上方へあるいは下方へ歌いながら移動し、ステップを踏む。そしてだれかが白い粉(大麦の麦焦がし。チベットのザンパ)をだれかに投げつける。もはや雪合戦のような粉のぶつけあいがはじまっていた。無礼講よろしく、男が女の顔面にパイ投げの要領で粉をぶつけ、こすりつけていた。
白い粉をぶつけあうこの大きな風景のなかで笑い声がこだました。しかしこれもただ楽しんでいるのではなく、先祖の仲間入りをした故人たちと最後の時を楽しみ、かみしめているのである。
人々はまたコタンのある場所にもどって歌い、踊り、そのあと山を降り始める。正午頃、標高3900m地点の岩の下の小さな平らな場所で「擬似結婚式」を行なう。去年のことを思い出してしまうし、また疲労がたまっていたこともあり、私は今回は参加を見送り、一部の下山組といっしょに山を下りた。下る途中、いろんな人が花を摘んでは私のキナウル帽に挿したので、すぐに頭の上は花や葉でいっぱいになった。
村に着く頃にはヨタヨタになり、なんとか転倒しないで歩くのがやっとだった。大半の人はまだ山の上だったので、私はいっしょに下った人の家で疲れたからだを休めた。
シシェリン寺院
夕方の5時ごろ、私はシシェリン寺院の入り口で山から下りてきた人々に合流した。だれも私と同様、頭においかぶさるようなたくさんの花をキナウル帽に挿していた。寺院の境内には登山に参加しなかった群衆が待ち受けていて、登山組とまじりあい、そこへ二台の神輿が入って暴れまわる。神輿は私が冗談半分に「ムッシュかまやつ」と呼んでいるのだが、ヤクの尾で編んだ傘の部分がカツラのようでユニークである。神輿の前ではグロクツという一種のシャーマンが女装し、頬に針を刺し、ときおり神懸ってブルブルとふるえながら練り歩いていた。その後ろには妙にセクシーな女性シャーマンがオレンジ色の服を着て、やはり神懸かり、グロクツのあとを追っていた。彼女もグロクツと呼ばれるのかもしれない。
この境内に入れたこと自体が私には奇跡のように思えた。じつは前年は何人もの村人に「入るな」と言われ、あきらめた経緯があった。このあたりでは通常外国人は境内に入ることが許されず、たとえ許されても撮影の許可は下りないのだった。
ではなぜ撮影できたのか。ひとつには祭りの参加が二度目であり、山にともに登ったことで一種の連帯感が生じていたこと、またキナウル帽をかぶっていたのでキナウル人に見えていたかもしれないこと、などが考えられる。
ともかく、気づいたら境内に入り、ビデオを回し、デジカメで撮影をしていたのだった。勢いづいた私はさらにグロクツの神託の場面をも隠し撮りした。人の足のあいだから見えたグロクツはときおり白目をひんむき、激昂してなにかを叫んでいた。その内容は当たり障りのないものだった。しかしもしも撮影していることがばれていたなら、なにをされたかわからなかった。
本来は神に尋ねるべきだったとあとで言われた。神に尋ねるとは、まず神の代理人であるシェ・マタースを通し、神輿に「撮影してもいいか」と尋ねるのだ。すると神輿はひとりでにユサユサと揺れ始める。たてに揺れたならイエス、横に揺れたならノーである。もしそのように神に尋ねたら、おそらく答えはノーだっただろう。その原理はコックリさんとほとんどおなじではないかと思われた。
村人らはかわるがわる神意を尋ね、神輿はさまざまな動きをして返答した。しかし自殺した女性のことが質問されるということはついになかった。