ラサの犬
宮本神酒男
戒厳令の夜、ラサで
1993年5月某日深夜午前1時半、私は戒厳令下のラサの八角街(パルコル)の路地にいた。
その10分前、ホテルの門の扉をすこし開けてもらって、ホテルが面する比較的大きな通りに出た。昼間の催涙弾が飛び交う喧騒が嘘のように、ひっそりと静まり返っていた。店や食堂はすべてシャッター代わりの分厚い木板を張って厳重に戸締りをし、唯一の灯りである街灯がセピア色に通りを照らしていた。
日中はごちゃごちゃして狭苦しい通りだと思っていたが、人っ子一人いないと、広々として気持ちよかった。私は大またで電話局の方向へ歩き始めた。(なぜ深夜電話局へ行こうとしているのか、理由は省略させていただく)
そのとき通りのずっと向こうに一台のパトカーが止まっているのに気づいた。冷水を浴びせられたように現実に戻る。あやうくまた捕まるところだった。つい先ほどまで公安局の施設に拘束され、厳しい尋問にさらされたばかりだった。国外退去令を受けているのに、ここで捕まったら、今度はとてつもなく厳しい処罰が下るだろう。
その日の朝、私はジョカン寺(大昭寺)前の広場を出発したチベット人のデモ隊の後尾にくっついて歩いた。ラサ市政府の庁舎の前で彼らはシュプレヒコールを行い、何人かは投石した。磁石に吸い寄せられるように道端に立つ人々は吸収され、デモ隊は数千人の規模に膨れ上がっていった。
そのような調子で街の西端のヤクのモニュメントまで行進し、全員が路上にしゃがみこむと、勇気ある女性が立ち台に立って演説を行い、気勢はいよいよ上った。
ジョカン寺に戻る頃には、横断幕を持った先頭の人々は跳ね上がりながら、何かを叫んでいた。私がその様子を写真に撮ると、周囲の人々が「私服公安がたくさんいるからこの場を去れ」と低い声で忠告したので、私は見物人の中にまぎれ込み、八角街に逃げ込んだ。
入り組んだ路地の中でうまく追っ手をかわしたつもりだったが、彼らは無線機を持ち、おそらく入れ代わり立ち代り尾行したのだろう。一時間後、私はあえなく捕まってしまった。
市の郊外の公安局の施設で私が尋問を受けているころ、武装警察は群集に向かって催涙弾を浴びせ始め、負傷者が続出した。遠くで催涙弾が炸裂する爆音に驚き、窓にはまった鉄格子越しに外を見ると、自動小銃を持った哨兵が立っていた。
午前2時に電話局が閉まると聞いていたので、急がねばならなかった。電話局の方向に向かって暗い路地を進んでいった。そのときだった。遠くから、しわぶきのような乾いた音が響いてきた。
それはみるみる大きくなり、犬の吠え声と唸り声と多数の獣の足音が混ざったものであることがわかった。数十匹の犬が吠えまくりながら猛烈な勢いでこちらに向かって来るのが見えた。
と、反対側からも同規模の犬の群れが突進してきた。左右から獰猛な犬の群れがやってきて鉢合わせしようとしていた。まるで昔の東映ヤクザ映画みたいだった。犬の仁義なき戦いだ。
二つの犬の集団にはさまれ、一瞬立ち往生したが、家と家の隙間を発見し、あわててそこに避難した。ちょうどそのとき二つの群れは目の前で激突し、くんずほぐれつの戦いを繰り広げた。ガウ、ガウという噛み合う音が夜空にこだました。はずみで噛まれるのではないかと心配になり、物陰で私はぶるぶるふるえた。
ふと、一匹の巨大な黒犬が、犬の大乱闘をさえぎるように立っていることに気づいた。あとで考えると、犬が一匹だけ戦いに参加しないなどありえず、願望が作り出した幻影だったのではないかと思う。しかしともかくその幻の黒犬のおかげで、私は犬に襲われることはないと確信するようになっていた。犬たちは取っ組み合いをしながら移動していった。
私は午前2時前になんとか電話局にたどりついた。
数年後、私はシガツェの街はずれで数匹の野犬が一匹の犬をリンチにしているところに出くわしたことがある。翌朝、通りの真ん中には犬の屍骸が転がっていた。リンチは悪ふざけではなかったのだ。チベットの犬にとって、死ぬか生きるかは紙一重だった。ラサの犬の仁義なき戦いの翌朝にもおそらく多数の犬の屍骸が路上に転がっていただろう。
ラサでの逮捕及び国外退去の翌年、幸運なことに私はふたたびラサの街角に立つことができた。数日ラサに滞在して、奇妙なことに気がついた。街から犬が消えていたのである。あちこち歩き回り、ポタラ宮近くの漢族が主に利用する食肉市場に入り、大量の犬肉が並んでいるのを見て愕然とした。
もちろん思い過ごしかもしれない。しかしインド・ラダックでも最近(2007年)、犬の組織的駆除が行われていた。それは狂犬病が蔓延していたからだった。ラサでも狂犬病が発生し、放置できなくなったのかもしれない。
シガツェでも、90年代半ばのある時期、大量にいた犬(2000匹の野犬を目撃したという話を聞いたことがある)が忽然と姿を消した。
ラサの犬
「仁義なき戦い」を繰り広げていた犬はどういう犬だったのだろうか。おそらくギャオ(rGya bo)と呼ばれる犬ではないかと思う。セッターに近いと思われるが、近代的に改良されたイングリッシュ・セッターやアイリッシュ・セッターを想像すると全然違う。あくまで野良犬である。
イェン・ジェンチョン氏によると、ギャオ犬はラサ飯店近くの空き地にしばしば大集合していたという。別名大胡子(ひげ)犬。口は短く、端正で、両頬に模様が入っている。
寺で飼われている犬も大半がこの種の犬だ。たとえばラサの東100キロに位置する名刹レティン寺にはこのタイプの犬がおよそ百匹いて、参拝客の「落とす」糞尿を主食としていた。私はこの寺を訪ねたとき、庭に落ちていた缶を蹴飛ばしてしまい、音に驚いた百匹の犬に取り囲まれ、一斉に吠えられたことがある。
ラサでポピュラーな犬をもう一種あげるなら、アソプ(A sob)である。アソプはコンボ地区に多いパグ犬の仲間である。耳が垂れているが、狼のように獰猛だという。嗅覚がすぐれているため、狩猟犬として使われることが多かった。
もうひとつメジャーな犬はパンキー(sPrang khyi)すなわち乞食犬。これは雑種で、自分の領地を持たないため、流浪するしかなかったので、乞食と呼ばれる。チベット人から下等な犬とみなされてきた。
しかしわれわれのイメージするチベット犬といえば、黒い毛がふさふさした巨躯の獰猛な牧羊犬である。獰猛すぎて、ラサではもとから目にすることが少なかった。チベットではドクキ('Dogs khyi)、門に繋がれた犬(番犬)と呼ばれる。
ドクキ犬はひとたび牧羊犬になると、200匹の羊を守り、毎日外敵を追って40キロ以上を走ることができるという。この数字は誇張ではない。ランド・クルーザーに乗って放牧地を走行するとき、半時間近くこの種の犬に追いかけられることがしばしばあった。領地の境界線に達すると、ドクキ犬は突如止まる。外敵を見事追い払い、お役目御免というわけだ。
チベット・チャンタン高原の聖なる湖タロク・ツォにランド・クルーザーで行ったとき、村も牧草地も見えないところで、突然十数匹のドクキ犬の襲来を受けた。窓越しに激しく吠え立てる犬の歯茎がはっきりと間近に見えた。車に乗っていたので高みの見物ですんだが、ライオンのいるサバンナを走行するようなスリルがあった。
犬の守護神
チベット人にとって犬は牧羊犬として、狩猟犬として、番犬としてなくてはならぬ存在であり、家族であり友だった。当然、犬に関する伝説や神話はいくつもある。
『バロン谷の黒犬伝説』は、ダルマ・ワンチュグの建てたカギュ派バロン寺の護法神の由来伝説である。
ある日遠出をするふりをしてテントの近くに潜み、妻のあとを追うことにした。妻は牛毛袋を背負い、草原を渡り、二軒の金持ちの家の羊の群れの近くにたどりついた。
その袋をひっくり返して、砂を全身にかぶると、彼女は口が黒い赤毛の犬に変身した。赤犬は羊の群れに飛び込むと、二匹の子羊を襲い、口にくわえて袋に詰め込んだ。赤犬は砂をかぶり、もとの妻の姿にもどった。あわただしく(燃料のための)牛糞を集め、袋に入れて家に戻った。
夫アポレワは恐怖におののき、妻が怖かったので空の木箱の中に隠れた。家に戻ったチャルマは、夜になっても夫の姿が見えないので不審に思った。彼女は木箱の上に乗り、山に向かってザッ、ザッという音を発した。すると吹雪といっしょに、人でも馬でも犬でも鳥でもない妖怪の群れがやってきた。彼女はあきらかに妖怪軍団の頭だった。
「今晩はだれに肉を献じるんだね」
「大王であるあなたさまに献じます」
「ほう、それはよきこと」
と言ってチャルマは手を伸ばし、何里も先の雄馬をつかんで引き寄せると、妖怪の群れによって馬は引き裂かれ、粉砕された。馬の頭部は大王に捧げられ、他の部位は妖怪たちが貪り食った。脳みそを平らげたチャルマは木箱を跨いで家の中に入った。夫アポレワは箱の中で悶絶した。
目が醒めたのは二日目の午後だった。すでにチャルマは牛糞拾いに出かけていた。箱から出ると、ちょうど妻が牛糞拾いから戻ってきた。逃げ場がなかったので、しばらく何事もなかったかのように普段どおりに暮らすことにした。
あるときチャルマが糸をよっていると、毛糸球が転がって家の外に出てしまった。彼女は夫に「あんた、取ってきてよ」と頼んだ。
しかしアポレワはつい「おまえのその長い腕を伸ばして取ったらいいじゃないか」と言ってしまった。
チャルマは烈火のごとく怒り、牙をむき、「てめえ、犬にしてやる」と言い放った。
アポレワは赤目の黒犬に変身した。黒犬はそれまでのアポレワの生活とさほどかわらず、チャルマのそばで食べ、寝起きした。
ある日、アポレワが中国にいるときに知り合った茶の商人が騾馬の大群をつれてやってきた。茶葉をチベットに運んでいたのだった。商人はアポレワの家に宿を取り、「アポレワさんはどうしていらっしゃるのですか」と聞くと、チャルマは「夫は遠出をしているのです」と答えた。商人の足元に黒犬がうずくまり、涙を流していた。
翌日商人が出発すると、黒犬はその隊商についていった。
数年後、商人がふたたびバロン谷にやってくると、アポレワのテントはなく、そこに口の黒い赤犬がいるだけだった。チャルマは悪事を働きすぎて、人間の姿に戻ることができなくなっていた。彼女は犬精となり、バロン谷の人間を食っていた。
ある日ドルジェ・ジャンドゥという狩人がふたりの狩人をつれてバロン谷にやってきた。夜、仕留めた岩羊を背負って谷底に向かって急ぎ足で歩いていると、鋭利な声が聞こえた。
「一番前の人は私と会うのよ」
一番前にいたドルジェ・ジャンドゥは二番目を歩いた。すると「二番目の人は私と会うのよ」と声が言う。
彼は一番後ろに位置を変えた。すると「一番後ろの人は私と会うのよ」と言う。その声は次第に近づいてきた。
ドルジェ・ジャンドゥは立ち止まり、「この声の主は私と会いたがっているようだ。私は残ります。先に行ってください」と仲間に言った。
しかしひとり残して帰るわけにはいかず、三人で残ることにした。寝るとき、ひとりはニェンチェンタンラ神に、ひとりはサムテン・ガンサン神に祈った。ドルジェ・ジャンドゥは黒くて長い羚羊の角を出し、地上に挿し、合掌して祈ったあと三度叩頭した。
夜半、口が黒く赤毛の妖怪が現れた。大きな口を開け、牙をむき出し、毛の先からザッザッという音を発し、目から火花を、鼻孔から煙を出した。
まさに妖怪が三人を食おうというとき、白馬に乗った白衣のニェンチェンタンラ神がやってきて、妖怪を追い払った。しかしまた戻ってくると、今度は黄馬に乗った黄衣のサムテン・ガンサン神がやってきて犬の妖怪を駆逐した。それでもまたやってこようとすると、羚羊の角がやってきて妖怪を谷の奥深くに追い込み、消滅させた。
こうしてバロン谷に平和が訪れた。中国にいた黒犬はふるさとがなつかしく、茶の商人といっしょに戻ってきた。バロン谷の修行者ダルマ・ワンチュグはバロン寺を建て、黒犬に護法神となるよう要請した。
ある年、ナムツォ湖が氾濫し、洪水がバロン寺を襲ったが、黒犬の護法神は必死で守った。しかし一巻の経典が流れ、ひとりの僧が水から救い出し、レティン寺に運んだ。黒犬の護法神もいっしょにレティン寺に来たらしく、その像はいまもレティン寺に保管されているという。
………………
この寺院がいまもあるかどうか、レティン寺に黒犬護法神の像があるかどうか、たしかめることができない。90年代前半にレティン寺を訪ねたとき、寺は完全に破壊され、修復工事は始まったばかりだった。20世紀中盤、ここは摂政を輩出するなど政治の中心でもあったため、共産中国の目の仇にされたのかもしれない。
ともかく、犬が護法神であるというのは、そう多くないのではないかと思う。ほかに犬が神になっている例があるかどうか、さらに調べていきたい。
[補遺]
チベット人なら、ターラナータの『84人の成就者』に出てくるクックリパ(犬を愛する者)の名を聞いたことがあるだろう。クックリパはルムビニー近くの洞窟に雌犬とともに留まり、修行した。この雌犬は最後にはダーキニー(女神)となる。クックリパはバラモン階級出身のインド人タントラ僧だが、チベット人にとってもっとも印象深い修行僧である。なおターラナータ(1575−1634)は『インド仏教史』など数々の著作をあらわしたチベットを代表する知性。ジョナン派。生涯一度もチベットを出たことがないチベット人である。念のため。
⇒ 犬を磔(はりつけ)にして邪気を祓う
⇒ 犬殺しのオイディプス