チベットとペルシア 宮本神酒男 訳
第2章 ゾロアスター教と中央アジアのその他の宗教の伝来
1 ゾロアスター教はいつ吐蕃にやってきたか
まずチベットの史書中の伝説をもとにいわゆるタジクのボン教と吐蕃(ヤルルン朝チベット)との関係を見ていきたい。『ユンドゥン・ボン教目録』はつぎのように述べる。
「こののち吐蕃の王ニャティ・ツェンポの子ムティ・ツェンポは、天空に光芒の人を迎えた。彼はチンティ・コルスム(sPyings khri skor gsum)などで果ボン(’Bras bon)を講じ、ギャンド神山で修行をした。それによって化身メン・ティティ(sMan khri khri)に支持され、鳥のように空を飛翔し、水に沈むことなく、やせた土地に穀物を実らせ、乾期にも雨を降らせ、冬春の変わり目に雷を鳴らした。満足できる食事があり、庶民が楽しめる宮殿が完成した。
のちシャンシュンから18名の大学者を迎え、45座のボン教寺院を建設し、ついに教法の王(brTan pa’i rgyal po)と呼ばれるようになった。これ以前に果ボンはなく、シェンラブ・ミボがチベットに来たあと、12名の因ボン(rGyu bon)の人がやってきた。
チベットははじめ魔物によって統治されていたので、魔域カラク・ゴグ(bDud yul kha rag sgo dgu)と呼ばれた。この時期にシェンラブの心から幻出した魔ボン・カタデンユグ(bDud bon kha rta ‘greng yug)がチベットにやってきた。それによりチベットは魔域(bDud khams)となり、魔レロン・ツェルワ(bdud re rong rtsel ba)らはボン教を重んじた。魔物はボン・シェン・ニェンパ(gShen gnyan pa)を至上とした。
このあと夜叉がチベットを統治したので、チベットは夜叉域ダムツェ・リング(Srin yul gram tsal gling dgu)と呼ばれた。この時期に夜叉ボン・ムパ・ズィチュル(Srin bon mus pa dzi phyur)がやってきた。チベットは夜叉の地(Srin khams)となり、夜叉ギャリン・チャグミ(Srin sgya ring phyag mig)らはボン教を重んじた。夜叉はボン・シェン・ニェンパを至上とした。
このあとナーガ(ル)がチベットを統治したので、チベットはル域ナトラ・シンゴ(kLu yul natra sing sngo)と呼ばれた。この時期にルボン・ヤルヴャ・ギムブ(kLu bon dbyar snya gyim bu)がチベットにやってきた。チベットはルの地(kLu khams)となり、ル祖プチェン(kLu gtsug phud can)らはボン教を重んじた。ルはボン・シェン・ニェンパを至上とした。
このあとマサン・ニェン(Ma sangs gnyan)がチベットを統治したので、チベットはボドカ・ヤドゥグ(Bod ka ya drug)と呼ばれた。この時期にニェン・ボン・タンアン・トルワ(gNyan bon thang ang khrol ba)がチベットにやってきた。チベットはニェンの地(gnyan khams)となり、マサン・チェドゥク(Ma sangs mched drug)らはボン教を重んじた。マサンはボン・シェン・ニェンパを至上とした。
このあとサランギ・ブキェブ(Za rang gi bu skyes bu)がチベットを統治したので、チベットはジェ域ジェチェンチェ(byes yul dbye chen spyed)と呼ばれた。この時期にデボン・ジェケン・ツェンパ(lDe bon byed mkhan btsan pa)がチベットにやってきた。チベットは衆生の子の地(sKyes bu’i khams)となり、キェブ・ツェポ(sKyes bu rtsel po)らはボン教を重んじた。キェブはボン・シェン・ニェンパを至上とした。
このあとボドプ・ギャルポ(Bod spu rgyal po)がチベットを統治したので、チベットはボド域ソグカ(Bod yul sog ka)と呼ばれた。この時期、天空に光と色彩があらわれ、吐蕃の地(Bod khams)となった。パワ・ツォツェ(Pha ba mtsho gtse)が王の家臣となり、吐蕃王ニャティ・ツェンポはユンドゥン・ラツェイ・セマル(gYung drung lha rtse’i gsas mar)を建設した。王はボン教を重んじ、ボン教およびシェン・ニェンパを至上とした。
このあと十二小王(rGyal sil ma bcu gnyis)がチベットを統治し、トヨカギェ(bTos yo kha brgyad)と呼ばれた。この時期にギャルボン・トガルがやってきたので、王の地(rGyal khams)となった。諸王はボン教を重んじた。
これらはヨンカム・ジェクンの前のことで、ボン教がもっとも早くに栄えたころのことである。デンソン・ヨンカム(Deng song g-yong khams)とチェ(sPyed)にはユンドゥン・ボンを信仰する者がたいへん多かった。この時期、阿里ユンドゥン・ボン地区(mNga’ ris g-yung drung bon gri rgyal khams)、ユンドゥン・セモガン(gYung drung zal mo sgang)、雪国ボン地区(Bon kha ba can bon khams)が現れた。この雪国(Kha ba can)および厳格なる教戒(bKa’ btsan pa’i don)が転じてボカワチェン(Bod kha ba can)とボドカム(Bod khams)となった。
その時期、シェン・ニェンパが王位に就くと、イツァン(che ba yig tsang 宗教庁)の神像が奉献された。その神像のさまはつぎのとおり。その頭髪は乱れるも、髻の端を切られ、高貴な黄白色の絹の頭巾で覆われ、鷲のような髻になっていた。衣には白のオオヤマネコや黒の狼の装飾が施され、タジク産の三種の豹の前足の爪や白獅子のシュンカブ(gzhung khab)が掛かっていた。絹のやわらかい靴には銀白色の帯がつけられていた。
シェン神が発言するまでは、国王といえども命令を下すことができず、大臣はなおさら態度を勝手に表明することができなかった。シェン神(gShen)、ル(kLu)、ダウ(Da’u)の同意がなければ国王は歌舞を楽しむこともできなかった。その値打ちは国王と等しかった。もし棍棒でシェン神を殴ったら、その者は布施をしなければならなかった。もし財宝を盗み、その数が90のとき、その者は90分を払わなければならなかった。
(朝廷での)序列も、右にシェン神、左に大臣、中央に国王が坐った。一般の臣下は下に、そして法律執行のラマ(bstan pa rin po che)は威厳をもって端に坐った。
当時インドには仏法があり、中国には経典があったが、吐蕃とシャンシュンにはユンドゥン・ボン以外はなかった。ボン教には医薬、暦法など10の科目があった」
あきらかに後代のチベットの歴史学者らが憶測と捏造を加味しているため、以上の文をそのまま信用することはできない。ただし当時のボン教がボン教の源流と教義をどう見ていたかはわかる。疑いなくタジクはユンドゥン・ボンの発生地であるし、ボン教の開祖はシェンラブ・ミボであり、文献は繰り返し彼がタジクから来たこと、また彼らが光と太陽を崇拝していることを強調している。
7世紀はじめにはゾロアスター教がペルシアにあり、外へ伝播をしていたことは、唐代はじめにインドへ求法の旅に出た著名な僧玄奘の『大唐西域記』にも記されている。
「(ペルシアには)天祠はなはだ多し。提那跋外道の徒、宗とするところなり」
提那跋(dinnapati)とは太陽の意味で、提那跋外道とは拝火拝天のゾロアスター教のことなのである。
ペルシアのゾロアスター教とチベットのボン教のあいだに密接な関係があるのはまちがいない。ではこの関係はいつはじまったのか。いいかえると、シェンラブ・ミボはいつタジクのボン教を吐蕃に引き入れたか、とうことだ。依然としてチベット学界では意見の一致をみない。
われわれはゾロアスター教がシャンシュンに影響を与えたのはかなり古いのではないかと認識している。おそらくペルシア帝国の初期、紀元前6世紀から3世紀の頃にはじまり、紀元1世紀には直接一挙にゾロアスター教が入ってきたように思われる。伝説によれば、ディグン・ツェンポのとき、さらに大きな影響を与えた。ペルシアはこのときサーサーン朝だった。吐蕃の天葬の習俗はサーサーン朝ペルシアの時期に合致する。アケメネス朝ペルシアのときは犬葬だったのだ。
その後ペルシア人の大半はイスラム教に改宗し、8世紀、ゾロアスター教徒はインド西北へ移住した。ここに彼らは定住し、教義を保存した。現存するギルギットのソグド文や古代ペルシア語の題記などから、これらは5世紀から6世紀頃にかけてのソグド人のゾロアスター教の内容であることがわかった。
チベット北西部周辺ではゾロアスター教とゾロアスター教を信仰する東イラン語族はつねにもっとも影響力のある宗教と民族だった。つまり前述のようにサカ人の存在と文化の影響はきわめて大きかったということである。前5世紀にはすでにアケメネス朝ペルシアにおいてソグド人はゾロアスター教を信仰していた。ゾロアスター教がソグド人の地域に伝わったとき、北方は中央アジアの七河流域のアーリア系のサカ人部落にも達していた。それにはホータン人、ヤルカンド人、?弥(ダンダンウィリク)人、疏勒(カシュガル)人、渇盤陀(タシュクルガン)人も含まれていた。
ホータン人は仏教を信仰する前、ゾロアスター教を信仰していた。彼らはインド・サンスクリット辞典の翻訳から用語を用いていた。たとえばホータン・サカ語の太陽を表すurmaysdeはゾロアスター教の主神アフラ・マズダー(ahura mazda)のことだった。
疏勒(カシュガル)人もまたゾロアスター教を信仰していた。史書には「疏勒国……俗に?神を事とし、胡書文字あり」(『新唐書』「西域伝」)と記されている。
こののちこの地域を統一したエフタル人もまたゾロアスター教を信仰していた。中央アジアのペルシア文化はさらにインド、アフガニスタン、パキスタン北部、カシミール地区に長期にわたって存在したペルシア、サカ人、月氏などに影響を与えた。吐蕃は南部、西部、西北部でそれらと交流し、とくにゾロアスター教徒である商業民族であるソグド人と接触することでゾロアスター教が吐蕃、そしてとくにシャンシュンに流入してきた可能性は十分にあるだろう。
ゾロアスター教がいつ中国に伝来したかとなると、学界においても意見がわかれている。20世紀はじめ、蒋斧、羅振玉らは6世紀よりも前に伝来したという説を提出した。シャヴァンヌやボッシは新しい資料を提出して持論を述べている。1923年、陳垣は著名な『ゾロアスター教入中国考』を発表し、516年―527年とした。20世紀の30年代、日本の学者はマニ教の伝来が6世紀とする説に異を唱えた。50年代、唐長儒はゾロアスター教の伝来を十六国時代と考え、北魏説を否定した。のちに出土した高昌国時期のゾロアスター教関連の資料によってそれは証明された。1973年、中国系のオーストラリア人柳存仁は、5世紀にゾロアスター教とマニ教が伝来したが、陳垣説とは内容が異なると考えた。「中国に来たのは教義を広めるためではなく、また経典を翻訳するためでもなかった。信仰したのは胡人であり、唐人ではなかった」。彼は礼儀や習俗、とくに道教に与えた影響について説明した。またマニ教も当時の中国人の信仰に大きな影響を与えた。
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