チベットとペルシア 宮本神酒男 訳

第2章 ゾロアスター教と中央アジアのその他の宗教の伝来

 

2 吐蕃のマニ教信仰

 マニ教は古代ペルシアの一宗教である。その開祖マニ(216277)はバビロニアのパルティア王家に生まれた。故郷は古代ペルシア西部のティグリス河畔クテシフォン付近のマルディヌ(Mardinu)という町だった。現在のイラク領である。

 伝説によればマニは12歳のとき、「双子」(註:ペルシア語でナルジャミーグ)の精霊の啓示を受けた。24歳のときふたたび「双子」の精霊の啓示を受け、人々のあいだに教義を広める必要性を覚え、布教を開始した。マニは自分の父親と家族から布教をはじめ、のち海路を伝ってインダス河流域のトゥラーンやマクラン、すなわち現在のシンドゥやバローチスタンで教えを広めた。(註:トゥラーンがバローチスタン)

 のちにはサーサーン朝ペルシア国王シャープフル1世の庇護を受ける。242年、戴冠式のとき、シャープフル1世はマニに国民に向かって彼の宗教理論を述べる場を与えた。国王の支持のもと、マニ教はいっきにペルシア帝国内で広がり、つぎからつぎに教団が生まれた。273年、シャープフル1世が逝去し、ワフラーム1世が即位すると、ゾロアスター教や貴族階級とのあつれきが一挙に表面化し、マニ教は異端であるという宣告される。そしてマニは、十字架上に釘で磔にされたうえ、皮をはがれて死に至らしめられる。

 マニ教はゾロアスター教を基礎に広くキリスト教、仏教、グノーシスなどを吸収して形成された宗教だった。その主張は善悪二元論、あるいは二宗三際説である。二宗とはすなわち対立する光と闇、そして三際とは二宗対立の歴史であり、初際、中際、後際に区分される。

 中央アジアにおいてマニ教は、伝播しはじめた3世紀末からイスラム教に征服される14世紀まで、千年余りの長きにわたって存在しつづけた。シルクロードや中央アジアを縦横無尽に動き、商業活動をおこなったソグド人によって、マニ教は中央アジアおよびその周辺に伝播した。唐の都長安や漠北のウイグル人地区だけでなく、吐蕃にまで到達したのだった。ティソン・デツェン王に帰せられる著作の作者は、「ペルシアのペテン師マニ」と批判している。

 フランスのチベット学者スタンによれば、チベット文資料中の「Mar ma ne」がもっとも古い用例だという。それは唐代の漢文資料中の「末魔尼」と同一語と考えられる。

ウライ氏(Uray Geza)はまた、敦煌チベット文写本中にマニ教が吐蕃に伝来した記事を発見している。

 森安孝夫氏はつぎのように述べる。(漢訳からの重訳)

「<Par-sig>が漢文の<波斯>からではなく、直接ソグド語の<p’ rsyk>から来ているように、(Mar ma neも)ソグド語の<m’ r m’ ny>から来ているだろう。ティソン・デツェンの在位期や吐蕃が中央アジアに進出した時期などを考慮すると、遅くとも8世紀後半までにはマニ教が東方において主要な役目を持っていたことがわかる。唐朝やウイグルに伝播したマニ教の布教は吐蕃の朝廷にまで直接達していたと思われる。ソグド人が吐蕃に来ることによって、ソグディアナとマニ教がさかんだったトカリスタンとをつなぐ北西路線が形成された。クリムカイト氏はラダックのアルチの壁画(1112世紀)にマニ教の要素が見られることがその証拠だと考えている。

 ただしすくなくとも7世紀から8世紀はじめまでに、唐朝統治下のタリム盆地東南のロプノールにマニ教聖職者の部落があり、彼らとアルチン山脈南の吐蕃とのあいだに交流があった。このソグド人部落は長く存在し、彼らによってマニ教が吐蕃にもたらされた可能性が高い」

 マニ教は漢文資料中では明教と称される。というのも光明の神マニを敬い、太陽と月を崇拝するからである。マニ教はゾロアスター教とおなじくペルシアから来た宗教であり、同様に火や太陽、天を崇拝するので、しばしば混同される。

 たとえば元代僧志磐は名著『仏祖統記』のなかで「はじめペルシアの蘇魯支(ゾロアスター)、末尼(マニ)の火○教を起こした」(○は示へんに夭)

 陳垣氏によれば、ふたつの宗教には決定的な違いがあるという。マニ教は中国に入ってからも布教や経典の翻訳などを進めたが、ゾロアスター教はそういうことをしなかった。それゆえマニ教信者には外国人も多く、唐の漢人も多かったが、ゾロアスター教徒はみな胡人だった。林悟殊氏によると、マニ教の突出した特徴は、終始一貫して善悪二元論、すなわち世界の過去、現在、未来における明暗、善悪の二宗を基本哲学としていることである。そして地球は最後には滅びてしまい、善悪は永遠に分かれるたままだ。二元論に関してはゾロアスター教より徹底しているのだ。

 845年、唐の武宗は道教を重んじ、仏教、ゾロアスター教、景教、マニ教をひとしく弾圧した。『仏祖統記』にも「会昌三年、天下に号令してマニ寺を廃止し、都のマニ教徒の女性70人はみな死んだ。ウイグルにある者も、諸道を流れ行くなかで大半が死んでいった」と記される。

 チベットのボン教文献『セルミク』でも、知恵の神シェンラ・オカル(gShen lha ‘od dkar)、世間神であり造物主であるサンポ・ブムティ(bZang po ‘bym khri)、現世の開祖シェンラブ・ミボの三位一体的な聖体が5種類の形態で出現したと記される。これは原初仏(Adibuddha)から派生して五仏が生まれるのとよく似ている。

「これらの教義もまたマニ教から生まれた。マニ教において原初仏に相当するのが<偉大なる父>あるいは<光明の父>で、また五つの生霊の子があった。シェンラブの五体とは身体、言語、功徳、業、心のことである」(ホフマン)

 このほかホフマンはボン教の各創世神話のなかにマニ教的要素を見出している。

 注目すべきは、マニ教が吐蕃に伝播し、指弾されたという記載がチベット文献にあることだ。R・A・スタンはチベットの大蔵経『タンギュル』中に「正確な啓示の総論」という文章を発見した。これはティソン・デツェンの指導下に編集されたものらしい。そのなかで作者は述べる。

「名実ともにペルシアのうそつきどもが、貪婪のかぎりを尽くす異教徒モマニ(マニ教)だ。すべての宗教からの借り物でつくりあげた宗教なのだ。借り物はすべて改変し、すっかり変わってしまう。およそ宗教体系というものは堅持すべきものであるから、借りてきて改変するということは、つまりこの宗教には何の権威もないということである」

 このように吐蕃に伝播したマニ教に対し厳しい批判がなされている。マニ教は仏教用語を借用し、『マニ光仏教法儀略』という著作を世に送り出した。そのため732年にツェンポは激しく指弾したのである。ツェンポの詔勅のなかにつぎの一節がある。

「モマニ(マニ教)の教条には過激な異教徒の思想が入っている。それは仏教であると誤解させ、民衆を混乱に陥らせるものである。よって禁教とし、誤謬が広まるのを途絶しなければならない。それが西方の胡人および蛮族の民族宗教であることをかんがみ、彼らの信仰であることから、それを罪として彼らの信仰に反対する必要はない」

 ウライ氏はつぎのように述べる。

「吐蕃人と唐朝の漢人のマニ教に対する論評を比較すると、それぞれがマニ教の違った側面をとらえていることがわかる。吐蕃人は唐朝の漢人よりもマニ教の理論面を批判している。想像するに、吐蕃の宮廷の仏教上層部だけでなく、唐朝の道教徒もマニ教の状況は把握していて、その宗教教義にも通じていたのだろう」

 当然のことながら、吐蕃のマニ教文献に関してはさまざまな説がある。敦煌写本の『卜占書』中の<Mar ma ne>と<I shi myi shi ha>は、吐蕃遣唐使が益州から持ち帰った『歴代法宝記』系統の禅宗関連の書とする説がある。あるいは唐代、霊州一帯に流伝していたマニ教と景教が禅宗と対抗するために剣南に持ち込み、入灯史を著し、それが北の敦煌に伝わり、西の吐蕃に入り、中国・チベット交流史上の知られざるエピソードとなったのかもしれない。

 この問題に関し定説はないが、吐蕃と中央アジアのマニ教および景教の流行地域とのあいだに密接な関係があったことはわかる。これらを信仰する者たちはその地域のあいだを行き来していた。吐蕃西部に隣接する地域からは少なからぬマニ教や景教の遺跡や遺物も見つかっているので、吐蕃とそれらとのあいだに直接的、間接的な交流があったのは事実なのだ。 

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