シェイの立つ岩山の霊力
見た目だけでなく、歴史や文化が積み重なって場所の霊力というものはすごみを増すものです。シェイの岩だらけの丘もそのものだけでパワーを感じさせますが、人はその磁力に2千年か3千年前から惹き寄せられてきました。
悪名高きチベット・ヤルルン王朝(吐蕃)最後の王ランダルマ(ボン教を信じ仏教を弾圧したといわれるが、そうではなかったという説も根強い)の孫キデ・ニマゴン(在位975−1000?)が騎馬軍団わずか300名を連れて西チベットにやってきたとき、シェイに拠点のひとつを築いたのは、この岩山が信仰の対象であったか、すでに王宮のようなものがあったからでしょう。ともかくこの時期に、彼はたくさんの磨崖仏や石仏を製作させました。ラダックはカシミールにも近く、仏教がさかんな地域が近隣に多かったため、仏教の敵であるという噂を払拭するためにも、信仰心を強調し、仏教を保護する必要があったのかもしれません。
A・H・フランケの『西チベット史』に載っている磨崖仏(マイトレーヤ、すなわち弥勒)の写真がずっと前から気になっていました。シェイ寺院を訪ねたときも、あの仏様はもうなくなったのかなあ、と思ったのですが、あらためて写真を見ると、ありました。あまり目立たないだけの話で、この弥勒仏は千年以上もひっそりと立っているのです。
岩山の麓の広場に接した簡易な建物のなかには、数十柱の石仏が置かれています。これらも上記の磨崖仏と同時期に作られたのでしょうか。フランケによると、これらはメンラ(sman la)と呼ばれているそうです。それがメンラ(sman bla)だとすると、文字通りに訳せば薬師仏という意味になります。
しかしそれらはほとんどの参拝客の興味をひきません。彼らにとっては巨大なシャカムニ像のほうが見て面白いのです。たしかになぜこの仏像は突然こんなに大きいのだ? と疑問が矢継ぎ早に出てきます。その答えは信仰心の大きさということになるのでしょうけれど……。
夏には収穫祭が行われます。この獅子舞は、日本人にとっては見るだけでなんとなく理解できるような気にさせるものです。彼らは一軒一軒家を回り、寿(ことほ)ぎをしていくのです。
翌日の主役はラパ(シャーマン)です。寺院の離れの建物の「舞台」のようになった回廊で、ときには屋根の庇のほうまで出て、酒(チャン)を飲みながら神の言葉を参拝者たちに伝えます。何時間も飲み続けているので、相当酔っぱらっているにちがいないと思いますが、口から酒を霧状に吹くなど、実際は飲んだふりをしているだけかもしれません。
「舞台」でのパフォーマンスのあと、彼は白馬に乗り、群衆をひきつれてシェイ寺院本体へ向かい、本堂に入ります。彼には寺の護法神が憑依しているので、あくまでも寺や教派(ドゥク派)や仏法を守る神様なのです。彼が本堂のまんなかで、カタなどを捧げる群衆ひとりひとりに言葉をかけていると、ちょうど天井のほうから外光が射してきて彼を照らしました。まるでオーラにつつまれているようで、その姿はほんとうに神々しいものでした。
そのあと寺を出て、彼はふたたび白馬に乗って村の中を「お付き」や群衆とともに抜け、郊外の砂漠化した風景のなかにある神廟(ラカン)になだれこみ、そこで儀礼をおこないました。神廟に行く途中では、彼が馬から落ちるのを見ました! やはり泥酔していたのかもしれません。こうして彼はふたたび「舞台」に戻ります。
彼は突然「人々の信仰心が足りない」という理由で来年はもうやって来ない、とダダをこねる子供のように主張しはじめました。神様は気まぐれで、子供みたいにむずかるのです。まわりの人々はみな手をあわせて拝むように懇願します。最終的には来年も来ることを約束し、今年の豊作を予言して祭りは大団円を迎えます。これらはもちろん、あらかじめきまったプロットなのでしょう。こうしたきまりきったことを毎年繰り返すことによって、人々は自然と神のありがたみを感じるのです。
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