バスゴ、滅びの美学
レーからラマユル僧院方面へ向かうとき、あるいは逆方向から坂道を下って戻ってくるとき、いやがうえにも丘の上にそびえる巨大な廃墟が目に入ってきます。バスゴの王宮跡の残骸です。
廃墟というのは不思議なほど人の心に響くものです。それが巨大なものであれば、かつて大きな権力があり、建設に多数の人が関わったはずです。王侯貴族の生活や政治が、愛や嫉妬や憎悪があったでしょう。軍隊が駐屯していたかもしれません。周辺には人や物資が集まり、にぎやかな庶民生活があったはずです。それなのに今は風が吹きすさび、砂塵を巻き上げるだけで、人影は見当たりません。
西暦1400年頃、ラダックのティ・ツクデ王にはふたりの息子がいました。デ王子(ラチェン・ダクパ・ブムデ)とダクパ王子(ダクパ・ブム)です。デ王子はやさしくて思いやりのある性格の持ち主で、長男だったので、正統な後継者でした。一方、ダクパ王子は荒々しく、陰鬱で、思いやりに欠ける性格の持ち主でした。ダクパ王子は王国の領土の一部を譲り受けました。そうでもしなければ反乱を企てると父親は危惧したのかもしれません。
ティンモガンに要塞を築き、つづいて近くのバスゴの城を改修して立派な要塞を建てたのは、このダクパ王子です。レーの王宮が建設される前ですから、もしかするとダクパはバスゴを都とする王国を建てようとしていたのかもしれません。
ところがのちにラダックの絶対的な王となったのは、正統派国王デの長男ロドゥ・チョクデン(在位1440−1470?)でした。そのあと王を継いだのは、しかしながらバスゴに要塞を建てた非正統派ダクパの孫ラチェン・バガン(在位1470−1500?)でした。当時は外敵よりも身内との権力争いのほうが大変でした。
このあとの百数十年は国を揺るがすほどの事件が起きていないので、省きます。言い換えるなら、17世紀半ば、ラダックは存亡の危機に直面するのです。
チベットの第一次黄金期といえば、歴史学者によっては「チベット帝国」と呼ぶ、現在の新疆やパキスタン北部などまで版図を拡大した8世紀頃のチベット(吐蕃)です。第二次黄金期は、あまり知られていませんが、「偉大なる五世」ダライラマ5世(1617―1682)の頃です。
1641年頃からの数年間、ダライラマ5世と結んでいたグシ・ハーン率いるモンゴル軍が東チベットを制圧しました。その頃ラダックの王位に就いたのはデルダンの息子デレク・ナムギェルでした。
1663年頃、バスゴの要塞に滞在していたデレクは中央チベットの攻勢を恐れ、カシミールのナワブに使者を送って助けを求めます。しかしカシミールはすでにムガル帝国の属領となっていたため、ナワブはデレクの手紙をデリーに送りました。
このときムガル帝国の皇帝は援軍を派遣する代わりにいくつかの条件を提示しました。その最初にくる条件は、ラダックの王、すなわちデレク自身がイスラム教徒に改宗することでした。これは飲める案ではありませんでした。なぜなら祖父の代から、仏教を奉じることによって、王室は人民の支持を得てきたのですから。しかしムガル軍の支援がなければ、勢いを得ていたモンゴル・チベット軍を撃退することはできそうもありません。
背に腹は代えられない、ということでデレクはイスラム教徒になることを約束しました。ムガル帝国はさっそく60万人の兵を送ったとされますが、これは現実的な人数ではないので、せいぜい6千人だろうとカニンガムは述べています。
ともかくナワブ指揮下のムガル軍はカラツェでインダス川に架かった2本の木橋を渡り、モンゴル軍が占拠していたバスゴに攻め入りました。モンゴル軍はバスゴを逃れて、東のニェモの手前のジャルギェル平原を戦闘の場所に選びました。しかしモンゴル軍は完敗を喫し、スピトクまで逃げます。そこでも持ちこたえられなくなり、彼らはパンゴン湖を越え、現在の中国(チベット自治区)とインド国境のタシガンまで敗走しました。これは1683年のことです。
ティンモガンに避難していたデレクはなんとか面目を保ったのですが、その代償は小さくありませんでした。彼はナワブのキャンプに連れて行かれ、約束通りイスラム教徒になる誓いを立てさせられました。そしてデレクの五男ジクペ・ナムギェルもイスラム教徒に改宗させられ、カシミールに送られました。妻や娘もカシミールに連行されたという話もあります。
これ以降バスゴの存在感は薄れていきます。1820年代にラダックにやってきたウィリアム・ムーアクロフト(1767−1827)の日記を読んでも、バスゴの名は出てきません。しかしゾラワル・シン将軍(1786―1841)がラダックやグゲ(西チベット)に攻め入ったとき、ラダックの王(ツェパル)との会談はバスゴでおこなわれているので、当時はラダック王国の離宮のような役割をもっていたのかもしれません。
歴史資料を見てもいつバスゴの凋落がはじまったか、はっきりしません。1846年にジャンムー・カシミール藩王国ができたあと、ラダックはそれに吸収されることになるのですが、ラダック王の没落とともにバスゴ要塞の荒廃がはじまったのかもしれません。
私は何年か前、冬の間バスゴに滞在し、さまざまな祭礼を見たことがあります。このときの主役は大臣でした。村人の踊りも彼は王侯貴族のための(王様のためといっていいでしょう)特別席に坐って見るのです。儀礼的な競馬のときも、勝利は大臣のために用意されていました。この祭りについてはまた別の機会に詳しく述べたいと思います。
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