聖なる褶曲の上に建つザンラ王宮 

 すこし遠目からザンラの旧王宮を眺めると、そこがたいへんな霊力をもった岩山であることがわかります。竜がのたうつような褶曲の地層が、エネルギーを産み出しているのでしょうか。あるいは荒波のように見えるかもしれません。波の上に朽ち果てた旧王宮がのっかっているようです。

 それにしても、不思議です。王宮と要塞を兼ねたいわば国の心臓部を、どうしてこんな危なっかしいところに建てるのでしょうか。いくら難攻不落といっても、敵が襲ってくる以前に、住みづらいのではないでしょうか。酔っぱらって足を踏み外したり、風雨の強い日に滑って谷底に落ちたりする恐れはないのでしょうか。まあ、だれも住まない廃墟となった今、そんな心配をしてもしかたのないことですが。

 この岩山が持っているパワーははかりしれないものがありますが、チベット人やザンスカル人はこういった(褶曲のような)奇異なるものを本当に神聖なものと見たのでしょうか。高僧で哲学者のジャムゴン・コントゥル(1813−1899)が、ツァダ・リンチェン・ダク(現在の中国四川省)という聖なる場所が有名な聖地ツァリ(チベットとインドの国境上の聖山)のようにすばらしい、といったことを書いた文章のなかで、「地、岩、丘、そして崖。これらは虹の色をしていて、輪の形をしている」と表現しています。ザンラと似たような風景を聖なる風景としているのです。

 ザンラは、国といっても、人口でいえば村のようなものです。面積は「郡」程度の広さはありますが、大国から独立した存在でありつづけるのはむつかしかったでしょう。フランケの『西チベット史』では、ラダック王プンツォグ・ナムギェル(在位17401760?)の項に登場しています。それによると、ザンスカルの王が王室メンバーに、ザンラの城とそれに60人から80人の農民をつけて与えたとあります。ザンラはヒンドゥスタンにたいする最前線にあたり、国防上重要な拠点でした。

 つぎのラダック王であるツェワン・ナムギェル(在位17601780?)の時代、王の使者がザンラに送られます。ザンラの王女をツェワンの妻(王妃)として迎えるためです。ところがザンラ王女がラダックの都に着きますと、王は低カーストの女に入れあげていたのです。ザンラ王女からすれば、いい面の皮です。王女が怒って帰ってしまったのは仕方ないことでした。

ザンラ王と王妃 

 この数十年後、ひとりの小さな西欧人がザンラにやってきます。チベット学の祖となったハンガリー人(現ルーマニア領)のチョマ・ド・ケレシュです。彼は1823年6月から1824年11月まで、このザンラ王宮に滞在したのです。水や食料を確保するだけでもたいへんなこの場所によく一年半もいたものです。ラダック王国政府からもてなすよう命令が下っていたはずですが、ザンラ王家の人々は相当に苦労したにちがいありません。

ザンスカルの絶景 

 ザンラ王の子孫はいまもこのすぐ下に暮らしています。子孫というより、いまもザンラ王なのです。昔のような権限はありませんが、地域の人々はいまも彼をザンラ王として認めているのです。私はここからそんなに遠くないパキスタン北部バルチスタンのハプルというところで、王様(ヤブクと呼ばれる)の邸宅を訪ねたことがあります。彼もまた地域の住民からは、王様とみなされていました。まだまだ世の中には知られざる王様がたくさんいるようです。


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