異次元に通じる洞窟寺院 

 私がはじめてラダックに行ったのはずいぶん前のことで、80年代後半のことです。このときは日本での週刊誌の仕事が忙しく、無理に時間を作って空路、標高3500mのレーに入り、すぐにトレッキングに出発したため、標高4700mの峠の手前で高山病に倒れてしまいました。たまたまドイツ人グループの医師に助けてもらいましたが、肺水腫を患っていて、あやうく命を落とすところでした。呼吸ができないのは本当に地獄の苦しみでした。

 このときか、あるいは二度目の90年代に入ってからのときか、はっきり覚えていませんが、たまたま手に取ったパンフレットに、ザンスカルの洞窟寺院、プクタル寺の写真を目にしました。パンフレットの印刷がずれていて、なにか現実感のない写真でしたが、ぽっかりあいた洞窟の寺は衝撃的でした。

この暗黒の空間はどうなっているのか、そこは異次元に通じているのではいか、と本気で考えたのです。いや、もし異次元に通じるという考え方がばからしいとしても、そこに行ったとき、人の意識は変容するのではないか。意識が変容するのであれば、日常の意識では見られない何かが見られるのではないか、などと思ったのです。

 ですから、2000年代半ばにプクタル寺を訪ねたときは、長年の願いがついにかなったようで感動しました。実際に足を踏み入れて感じたのは、どうやってこんな崖に寺を建てることができたのだろうか、ということです。すこし離れた崖の途中に僧坊がいくつも建っているのですが、人間がこんな危険なところで建設作業ができるとはとても思えないのです。

 とはいえ、寺院の中庭に立つと、狭いとはいってもある程度の空間の広がりがあることに気づきます。大きな洞窟のすぐ下には修行用の洞窟があり、チョマ・ド・ケレシュはここにも滞在していたということです。実際そこには彼自身が書いたと思われる石のプレートが残っていました。

 チベット学をかじったことのある者なら、チョマ・ド・ケレシュの名ぐらいは聞いたことがあるはずです。私も名前は知っていた、というより知っているのはチベット語の辞書を編纂したことと名前だけでした。イメージとしては、身体の大きながっしりした白人の探検家でした。しかしあとで調べると彼は身長が150cmしかなく、偏屈な人間として知られていました。でも知の巨人であったことはまちがいありません。彼は27種類もの言語を修得しました。成り行き上勉強することになったチベット語を極めたのだから語学の天才なのでしょう。彼はザンラでカンギュル・タンギュル(チベット大蔵経)各108巻のほとんどに目を通し、そこでピックアップした語彙をもとに辞書の編集をはじめました。

 チョマ・ド・ケレシュは1826年にプクタル寺に滞在しました。2年前、ザンラに滞在していたときは、プンツォクという人に全面的に助けてもらいました。しかしいま彼はラダックの大臣であり、外国人と接することは多くの誤解を生みかねませんでした。西欧人がチベット語を学ぶこと自体がスパイ活動とみなされていたのです。しかもプクタル滞在中に彼のパトロンでもあったムーアクロフトがヤルカンドで客死したという知らせを受け取ります。このあと彼はラダック王国の及ぶ範囲を離れ、キナウルのカナムに滞在してチベット語の研究をつづけました。

 

 さて、私はついに洞窟のなかに入りました。外の風は遮断され、なかは霊的なエネルギーに満ちているような気がしました。手前には小さなストゥーパがあります。その向こうには穀物が山積みになっているのです。あれ、それではまるで穀物倉庫ではないか……。

 このときは確認できなかったのですが、どこかに泉があるはずです。泉があり、水が入手しやすいからこそここに寺院が建てられたのです。しかし小僧たちが下で汲んだ水をかかえてくるのを見ましたし、いまはそれほど水が出ないか、枯渇してしまったのかもしれません。

 私はこの洞窟には何かがかくされていると感じました。外から見ると、大洞窟の横の崖のすきまからタルチョ(旗)が垂れていました。つまり大洞窟の奥に秘密の出入り口があって、そこから別の洞窟に通じているのです。おそらくそこに護法神を祀った秘密の洞窟があるのではないでしょうか。


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