鉱物世界
西チベット(ンガリ)やチャンタン高原を旅している間に、私はすっかり鉱物がむきだしになった無機質な紫色や青鈍(にび)色、赤錆色の風景が好きになっていました。これには自分自身、驚いてしまいました。
それまでは、生い茂る森の濃い緑や若葉の萌黄色、花々の薄桃色や橙(だいだい)色にかこまれ、鳥のさえずりや蜂の羽音、せせらぎ、風に梢がこすれる音を聞いていたいといつも思っていたのですから。
車に乗って5500mの峠を越えてチャンタン高原に入り、しばらく行くと、上の写真の赤い鉱物でできたような小さな丘が見えました。いつもそうなのですが、登れそうな「山」を見ると、私は童心に帰って、頂上めがけて駈けてしまいます。標高が高くて、頂上にたどりついたときには心臓がバグバグと脈打っているのです。
このあたりには草一本生えていませんでした。虫一匹いません。生命の痕跡がないのです。金星に着陸したらこんな風景なのでしょうか。下の道路には犬の白骨化した死骸がありました。生命が感じられるのは、皮肉にも死骸だけだったのです。
奇妙な反応かもしれませんが、この無機質な山の頂で瞑想をしたいと思いました。J・G・バラードの小説ではないですが、瞑想しながら、自分の全細胞を結晶化し、鉱質化するさまを観想するのです。そうすると鉱物もまた生きていることがわかります。人間のような刹那を生きるのではなく、何億年も生きるのです。そうして宇宙意識を体験的に理解するようになる……。
もちろん実際にはそんなことをする時間はなく、山から下りるとすぐに車に乗り込み、町をめざして出発しました。
しばらく行くと、突然数匹の犬があらわれ、窓の外を並走しはじめました。気がつくと数十匹もの牧羊犬がまとわりついてくるのです。これまでも何匹かの狂暴そうな犬がずっと追いかけてくることがありました(彼らが番をしている広大なエリアから出ていくまで吠えたててくるのです)が、これだけ束になってかかってくるのははじめてでした。
おそらくさきほどの犬の死骸があったあたりは「死の谷」であり、犬たちも容易には近づけないのでしょう。「生者の高原」はそのぶん犬の数が過剰気味で、わずかなエサをみんなで取り合うという構図が生じてしまっているのかもしれません。
この写真にはすこし思い入れがあります。チャンタン高原の北東部を車で走っているとき、車が水と凍った雪がまじった轍(わだち)にはまってしまいました。こういうときはどうするかといえば、小石とやや大きめの石をあつめてきてタイヤの前に積み、運転手がエンジンをかけるのです。ところがまわりは砂地で、手ごろな石を得るには50mくらい歩かなければなりません。このため車が轍を脱するまでに、何時間もかかってしまいました。出発する頃には夕日が射し、人家にたどりついたのは真夜中の2時頃でした。
夕日が射した頃に撮ったのがこの写真なのです。疲れていたのか、その瞬間にウトウトし、白昼夢を見ました。わずかな間の白昼夢だったはずですが、何年分もの夢を見たのです。
夢の中で私は旅の僧でした。どこか西のほうで巡礼をしていたようです。カイラース山やマナサロワル湖を巡礼して、何か重要なもの、おそらく小さな仏像のようなものでしょう、それをもって故郷に帰ろうとしているのです。しかし旅の途中で強盗に遭い、それを失ってしまったのでした。無一文になってしまいましたが、なんとか故郷に戻れば家族に無事を報告することができると考えました。しかし疲労困憊し、憔悴しきり、ほとんどからだが動かなくなってしまいました。岩陰に身を横たえ、しばらく休んでから歩き始めようと思いました。しかしそのまま私は息絶えてしまうのです。
ここで目が覚めました。なにか無念な気持ちが胸のあたりにつかえたままでした。おそらくたんなる夢なのでしょうが、それが前世のような気がしないでもないのです。
紫色の山
赤い岩壁に住んでいるのはツェン(btsan)と考えられる。彼らは生前誓いを破った破戒僧だった。
彼らは偉大なラマによってなだめられて、寺院などの守護神となることがある
紫の山へとつづく道はやはり紫色。そんな土壌に生える草の味は……
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