霊峰カイラース
「死ぬまでに見るべき風景をひとつあげよ」と言われたら、私は躊躇することなくカイラース山をあげます。河口慧海ならきっと賛同してくれるでしょう。彼は1世紀前、はじめてカイラースを見たときのことを記しているのですが、この霊峰をほめたたえる仏教的な美辞麗句を経文から引用したあと、「実際来てみますとそんなに形容してあるようなものはない」とクールに否定し、自分の言葉で印象を述べます。
その夜などは碧空(あおぞら)に明月が輝いてマパム・ユムツォの湖水に映し、その向こうにマウント・カイラスが仏のごとくズンと坐り込んでいる。その幽邃なる有様にはほとんど自分の魂も奪われてしまったかと思うばかりで未だに眼に付いて思い出すと心中の塵はことごとく洗い去られるかの感に堪えぬのでございます。
とくに8千メートル峰が林立するヒマラヤ山脈を超えてきた者にとっては、天界のような広大なチベット高原に姿を現すカイラース山は、圧倒的な、霊的な存在感を持った霊峰に映ったことでしょう。
しかしそれは千年前も、2千年前も、1万年前もおなじであったはずです。人はいつからカイラース山のことを知り、神山として崇拝し、巡礼するようになったのでしょうか。
『マハーバーラタ』(BC4世紀〜AD4世紀成立)には、すでにシヴァが住む聖なる場所としてカイラース山が登場しています。
瞑想しているとき、アルジュナは自身が体から抜け出すのを感じた。隣にはクリシュナがいて、パンダヴァの手を握っていた。彼らは2本の矢のように、濃紺の空の中をすごい速さで、まっすぐ飛んでいった。風をさいて彼らは北へ飛翔した。あたかも明晰な夢のようだった。アルジュナは眼下に横たわるものすべてを見ることができた。ヒマラヤの百の峰々を越え、ときにはひらりと、ときにはさっと、つねに北へと飛んで行った。彼らはヒマヴァンを過ぎ、無数の湖が点在する広大な台地を越えた。そしてもっとも純粋で美しい湖、マナサロワル湖に至った。
女神マナサのゆらめく光の水の向こうに孤高とした山が現れた。その頂は満月のように、あるいは巨大な水晶のように丸かった。これがカイラーサ、輝く白い雪をかぶったもっとも聖なる山である。クリシュナとアルジュナは幻影のようなその山に近づいた。と、突然百の太陽が昇ったかのように斜面のもっとも高いところが輝き、目がくらんだ。たとえようがないほど美しい女神ウマをかたわらに、白い尾根の上に坐っているのはシヴァだった。彼らがカイラーサを光で包んでいたのである。
このようにカイラーサ(カイラース山)がとても美しく描かれているのです。マナサロワル湖やカイラース山の描写はあきらかに実際の体験がもとになっています。湖が点在する台地は、それにあてはまるのはカイラース山の北方にあるのですが、チャンタン高原でしょうか。
『マハーバーラタ』に出てくるのだとすれば、もっとも早くカイラース山を発見したのはインド人ということでしょうか。彼らが早くからこの山のことを知っていて、それをモデルにスメール山(須弥山)を中心とした宇宙観を構築したのかもしれません。ただしスメール山とカイラーサを別の山として認識する神話も多いので、モデル説がかならずしも成り立つとはかぎりません。
プラーナ文献の時代になると、カイラース山の記述は俄然、増えてきます。そのなかでも『バーガヴァタ・プラーナ』(AD500−1000に成立?)の描写は詳しく、具体的で、美しいので、紹介しておきましょう。
時間そのもののようにすばやく彼ら(ブラフマーとデーヴァたち、プラジャパティたち、リシたち)は地上にやってくると、ヒマラヤ山脈の北にある孤高とした山に降り立った。その山は質朴とした、目を見張るような風景のなかにあって、巨大な真珠のように輝いていた。カイラーサは偉大なるシッダ(成就者)やヨーガ行者のふるさとだった。
キンナラ、ガンダルヴァ、アプサラその他の聖なるものたちがその光り輝く斜面の上にたくさん住んでいた。というのも、真に、この山は山のなかでももっとも神聖だったからである。
聖なる山の上の輝ける森のなかでは、宝石の果実がたわわに成ったカルパ・ヴリクシャス、すなわち如意樹が育っていた。成就者でもある山の妖精たちは、カイラーサの輝きの洞窟にやってきて、男の成就者たちと交わった。
水晶の小川と湖が孤高とそびえる山を飾り立てた。その水は純粋で、甘く、アムリタのごとくであった。孔雀が声を上げ、蜂の群れが地上のいかなる場所でも見られない美しい色にあふれた、咲き乱れる花の甘露の宴に酔いしれた。
こうして蜿蜒と極楽浄土のような描写がつづきます。そして木や花、動物、鳥、川の(聞いたことのない)名前がずらりと並びます。ヒンドゥー教の世界観では、カイラース山は仏教やボン教には見られないような具象性を持った存在なのです。
この近辺の典型的な風景
シャンシュン人か、シャンシュン国以前の先住民が早くからカイラース山を崇拝していた可能性は十分にあります。前述のように、ドリン(巨石)を立てた人がだれなのかわかっていません。世界中の巨石文化を見ると、紀元前4千年期とか3千年期といった古い時代が考えられています。4千年前や5千年前にドリンが立てられたのかもしれないのです。たとえばネパール西北部に分布するカシャ族は有力候補のひとつといえるでしょう。カシャ王国があったネパール西部で、最近、寺院遺跡群が考古学の専門家によって調査されています。そこからわかるのは、門がかならずカイラース山の方向を向いているなど、極端なほどのカイラース信仰が見られるということです。彼らは西チベットにしばらく居住し、千数百年前にネパールへ移動してきたのでしょう。このカシャ族は、非ヴェーダ系のアーリア人です。
カシャ族は、カイラース・トレッキングの出発点ともなっているネパールのフムラ地方にも多く住んでいます。ここはネパール領内とはいっても、国境を越えればプランがあり、その北はマナサロワル湖なのです。
フムラにも多少分布し、そのあたりからインド・ネパール国境上の町ダルチュラあたりまで分布しているのがチベット系民族のラン族(ビャンス族、あるいはボーディア)です。別の項で述べたように、彼らは死者儀礼のとき、魂をキュンルン・グイバトに送ります。これはキュンルンの9層の山といった意味なのですが、「9層のスワスティカの山」とも称されるカイラース山のことではなくて、どうやらシャンシュン国の都キュンルン銀城を指すようです。
フムラ地方のニンバ族(民族的にはチベット人)やカシャ族、ラン族ともにシャンシュン国の一員だった可能性があります。シャンシュン国が滅亡したのが7世紀か8世紀というかなり昔のことなので、彼らは伝承を失っていますが、多かれ少なかれカイラース信仰をもっていることが共通しています。
シャンシュン国が強大で広大な国だったという伝承がありますが、古い文献などを調べますと、キュンルン・ングルカル(銀城)からタンラ・キュンゾンにかけての狭い地域がオリジナルのシャンシュン国のエリアと考えられるようです。その考え方ですと、南はツァン地方、西はカシミール地方だということです。(サムテン・カルメイ)
そうすると、シャンシュン国のど真ん中に位置するのはカイラース山ということになります。ボン教版シャンバラであるオルモルンリンもまた、ボン教徒がよく言うようにタジク(ペルシアか中央アジア)ではなく、上に述べたようなカイラース山を中心としたエリアということになるのです。オルモルンリンが理想的な美しい国であるとするなら、わざわざ中央アジアまで出かけていって探す必要などないのです。まさにここ、カイラース山を中心とした地域で探すべきなのです。
カイラース山の西面
カイラースにまつわる伝説といえば、詩聖ミラレパとボン教のナロ・ボンチュンとの闘いのエピソードを思い浮かべる人もいるでしょう。
ある日ミラレパの弟子は、ナロ・ボンチュンが死の儀礼をおこなっているのを見て感銘を受けた。酒を故人の小像にかけると、首を動かしたのである。そのことを師匠に報告すると、ミラレパは弟子に、翌日儀礼のときにダムパリ(ラッパ)を取り上げて吹いてごらん、と言った。翌日その通りにすると、小像は首を動かすのをやめた。ナロ・ボンチュンは怒ってミラレパの弟子に言った。
「これはおまえが考えたことではないな。戻ったらグルに明日我が家に来るよう言え」
翌朝ミラレパはナロ・ボンチュンの家に行った。
「おまえが本当に念力を持っているのなら、その手で湖をこの家の隣に持ってきてみろ」
驚くべきことに、ミラレパはその手でマナサロワル湖を隣に持ってきた。(マパム・ツォの語の由来)そして言った。
「じゃあ今度はあなたに念力を見せてもらおう。湖の反対側にジャンプできますかな」
ナロ・ボンチュンは湖の反対側にジャンプしてみせ、ミラレパが驚かされた。ナロ・ボンチュンは言った。
「今日は力がおなじようだ。それでは明日、カイラースの頂上にどっちが先に着くか競おうではないか」
翌明け方、ナロ・ボンチュンは太鼓に乗ってカイラースの頂上へ向かい始めたが、それを見て弟子はあわてて師匠のところに来て起こした。
「尊い方よ、ナロ・ボンチュンは頂上に近づいております!」
「太陽はもう昇ったかね?」
「いえまだです」
「日が昇ったときに起こしてくれよ」
そう言うとミラレパはまた眠りにもどった。
ナロ・ボンチュンが半分以上山を登ったとき、弟子は師匠を起こした。太陽の最初の光が頂上にさしたとき、ミラレパはその(光の)上に乗った。
負けたことを知ったロ・ボンチュンは怒って太鼓を山にぶつけた。太鼓の片方がつぶれたのはそのためである。(片面太鼓を使っていることの由来の説明)
こうして最終的に仏教側のミラレパがボン教に勝つわけですから、仏教徒からすれば違和感がないかもしれませんが、ボン教側からすると納得できません。念力においてまさっているというだけで、しかも現実にはありえない能力を見せているだけであり、人格や仏法でまさっているわけではないからです。あえて隠されているポイントを探し出すなら、ナロ・ボンチュンが死の儀礼において、動物を殺して生贄にしている(と思われる)点です。ヒマラヤの多くの地域では、そうして仏教がシャーマニズム的な宗教を信じるものたちを転向させてきたのです。
ですから、単純に仏教が勝ち(ミラレパはカギュ派の祖のひとり)この地域からボン教を駆逐したとみるべきではないでしょう。たとえばムスタンの南部に分布するタカリ族は、ナロ・ボンチュンをいまでも崇拝しているのです。彼らの宗教祭司やシャーマンであるアヤ・ラマやドムは、ボン教徒とは認定されていませんが、ナロ・ボンチュンの精神を継承しているのです。
タカリ族はこのミラレパとナロ・ボンチュンの競争の伝説以外に、ミラレパがだましてナロ・ボンチュンの書物をすべて焼いてしまう話があります。ナロ・ボンチュンはなんと焼かれてできた灰を飲み込んでしまいます。そのためナロ・ボンチュンは本(経典)を持たず、文盲だが、恐るべきパワーを持つことになるのです。
似たような伝説をタマン族も持っています。これはボンボ(シャーマン的宗教祭司)と仏教ラマの話で、構造はまったくおなじです。ネパールの山岳民族のあいだでは、こうした「仏教vsシャーマニズム」の戦いが繰り広げてきたのです。仏教のほうにやや分があるようですが、じつはそこへヒンドゥー教が割り込んできて、両者を圧倒しつつあるというのが現実です。ヒンドゥー教は生贄を禁止するどころか率先しておこなっていて、仏教としてはいかんともしがたい情勢にあるのです。
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