キュンルン銀城(1) 

 キュンルン・ングルカル 

 歴史作家チャールズ・アレンが、自身の紀行をもとにして『シャングリラを探して』(1999)を書いたときの痛恨の極みは、究極の目的地であったキュンルン・ングルカルへ行けなかったことでした。このときは、当局の許可が下りなかったのです。いくら西チベットのその周辺を歩き回って取材をしたところで、肝心の目的地に入れないのでは、画竜点睛を欠くどころではありません。しかし待てばいつか許可がもらえるという保証もあるわけではないので、物足りないながらも本にまとめたのでしょう。(チャールズ・アレンはその後BBCのクルーとともにキュンルン・ングルカルを訪ねることができたのですが、わずか2、3時間しか滞在できませんでした。それでもここがキュンルン・ングルカルだと確信しています)

 チャールズ・アレンはグルギャムの岩窟(ユンドゥン・リンチェン・バルワ)でテンジン・ワンダク・リンポチェと面会します。そのときアレンはたずねました。

「キュンルン・ングルカルの旧都はどこにあるのですか」

 リンポチェは南に面した小さな四角い窓のほうを指さして言った。

「この連なる丘の向こうにあります。歩いてたった一日の距離です。西洋人なら二日かかりますかな。川を渡って峠を二つ越えたら旧都に到達します」

 
カルゾンの要塞跡。この高台の頂上が陥没していたが、大きな空洞があったのかもしれない 

 正直に言いますと、この文章には疑念がぬぐえません。なぜならテンジン・ワンダク師はまさにこの地、グルギャムがキュルン・ングルカルだとかたく信じていたからです。カル・ドゥワンという人がここからそう遠くない、要塞の遺跡があるカルゾンをキュンルン・ングルカルとみなしているのですが、テンジン・ワンダク師はそれをも否定していたのです。あくまでここ、グルギャムこそキュンルン・ングルカルだと考えていたのです。ここの岩壁にはたしかにやや小規模の洞窟群がありましたが(シャンシュン国は洞窟群を活用していた)、そのことより、グルギャムがキュンルン・ングルカルだと信じた師匠のキュントゥル・リンポチェの直観のほうが重要だったのかもしれません。

 決定打といえるほどの証拠がないので、シャンシュン国の都の候補はたくさん出てきそうです。たとえば前述のダパの崖の要塞のような洞窟群やツァパランのグゲ王宮だって、都であってもおかしくありません。タンラユムツォ湖の洞窟もまた、有力な候補のひとつです。

 しかし、中国の地図に曲龍(チュロン)という地名で記されている村に近い谷間こそ「キュンルン(ガルダの谷)の銀の城」という名称にふさわしい、不思議な色や形の岩でできた美しい谷間なのです。そしてシャンシュンの城砦すべてがそうであるように、たくさんの洞窟があるのです。

 ガルダの谷に入っていく 

 シャンシュン国の都がここであったなら、王や王妃、家臣らもここに住んでいたはずです。古代の洞窟だらけの王宮とはどういったものだったのでしょうか。私の想像のなかでは、すべての洞窟が奥でつながっていて、最深奥部に王の間があるはずです。あるいは岩の中の階段を上がっていくと、丘の頂上のレンガを築いて造った建物の王の間に至るのでしょうか。

 また、あまり注目されていませんが、キュンルン・ングルカルに入る橋のたもとで温泉が湧き出ているのです。ここやティルタプリ、マナサロワル湖の湖岸のチュイ・ゴンパなど重要なところに、温泉が湧いているのです。温泉が冬場でも王侯貴族の心や体を癒してくれたことでしょう。

 入り口の巨大チョルテン 

 チャールズ・アレンもこの曲龍の谷間がキュンルン・ングルカルであり、それがシャンバラやシャングリラの源だと考えました。テンジン・ワンダク師に語らせたのは勇み足であったように思いますが、チベット人ガイドらの多くはグルギャムでなく、こちらのほうがキュンルン・ングルカルだと考えていたのでしょう。あるいはグルギャム、またはカルゾンがキュンルン・ングルカルの入り口にあたり、曲龍の谷間がその本丸だったのかもしれません。(ちなみにこの曲龍という地名には現代中国人のいい加減さと悪意が表れています。キュンには通常「瓊」という文字をあてるのですが、この縁起のいい文字を使いたくはなく、かといってそれにかわる文字が思い浮かばなかったのです)


橋を渡るとキュンルン銀城。川はサトレジ川上流 


 
キュンルン銀城は温泉だった! 温泉が独特の地形を生み出している 


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