キュンルン銀城(2)

 キュンルン銀城の金色と銀色の模様 

 キュンルン・ングルカルがどこにあったかを示す資料はほとんどありません。唯一民間伝承として残っているのが、シャンシュン国王リミギャのもとに嫁いだ吐蕃国王ソンツェンガムポ(?−649)の妹、セマルカルが詠んだとされる歌です。

当時、政略結婚はごく一般的なことでした。ソンツェンガムポは唐の文成公主を娶ったことで知られますが、ネパールや吐谷渾などからも王女を娶りました。吐蕃(ヤルルン朝チベット)に圧倒されつつも張り合っていたかつての大国シャンシュンも同様に、周辺国の妃を受け入れていたのです。

  

キュンルン黴城に来たのは *銀(dngul)をカビ臭い(rngul)に置き換えている 

避けられない私の宿命 

人は言う、ここは天上のような場所 

外から見れば、岩だらけの谷間 

そのなかは、あふれるほどの黄金と宝石 

でもそんなもの、何の役に立つというの 

こんな場所で人は生きていけない 

それらが光り輝くほど私の心は暗くなる 

  
数少ない洞窟壁画のひとつ(左)。廃墟寺院の謎の壁画(中央)と廃墟寺院の壁 

 唐やインド、ネパールからではなく、おなじチベット高原の国から来たのですから、それほど大きな環境変化があったとは思えないのですが、お城とはいっても、いままで見てきたように、シャンシュン国の城砦は崖や岩山の洞窟群なのです。王妃の部屋がいくら大きく、宝石で飾られていたとしても、日光は入ってこなかったでしょうし、外に出て散歩することもできなかったでしょうから、獄中に幽閉されるのとなんら変わりはなかったのです。

 しかしこの歌はたんなる歌ではありませんでした。シャンシュン国のなんらかの情報、とくに城の弱点や王の居場所を知らせる暗号が織り込まれていた可能性があります。この翻訳からはそれが何なのか、わかりようがないのですが。金銀財宝のありかはすくなくとも伝えられたにちがいありません。

 実際にこの歌が合図であったかのように吐蕃軍は攻勢を開始します。キュンルン・ングルカルから逃げ出したシャンシュン国王リミギャは、最終的にタンラ・キュンゾンのあたりで殺されてしまいます。長い繁栄を誇ったシャンシュン王国のあまりにもあっけない最期でした。

 なぜリミギャはタンラユムツォ湖の近くで殺されたのだろうかと最初は不思議に思いましたが、サムテン・カルメイ氏が述べるように、シャンシュン国のもともとの領土は、カイラース山を中心としたキュンルン・ングルカルとタンラユムツォの間の地域なのです。下の都を捨てて、最後は上の副都で抗戦したのかもしれません。すでに述べたように、純粋な湖水の聖なるタロク湖と、塩湖のタプイェル・ツァカ湖もその領域内にありました。この塩湖の無限の塩によって、シャンシュン国は潤っていたのです。しかしその(もしかすると数千年の)長い歴史にもピリオドを打つことになりました。

 詳しいことはまたのちの機会に説明しますが、ホータン(新疆ウイグル自治区)近郊から8、9世紀頃のチベット語の木簡が発見されました。そこに数多くの部落名が記されていました。おそらく徴用された国境警備隊員の出身地でしょう。このなかにはチンザン(スピンザン)部落、ヤンザン部落、ウォゾポ部落など、シャンシュンの部落とみられる名前が含まれていたのです。

これは滅ぼされたシャンシュン国の国民がそのままチベット帝国(吐蕃)の軍隊に組み込まれたことを意味します。8世紀から9世紀にかけて、チベットは現在のパキスタン北部や中央アジアにまで進出しました。このときもともと西方と密接な関係を持っていたシャンシュン国を征服していたことがおおいに役立ったはずです。

 キュンルン銀城の洞窟のひとつはボン教の修行窟 



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