魂はキュンルン・グイバトに回帰する 

 もうかれこれ十年になるのですが、あの日のことは忘れられません。フムラ出身のニンバ族のツェワン・ラマ(民族学&チベット医薬学研究者で、『カイラシュ・マンダラ』の著者で、国の評議会代議員でもあった)とともにネパールに接した国境上のインドの町ダルチュラに来ていました。ダルチュラはマハーカーリー川でネパールとインドに二分されていました。インド側からだと、アクセスは簡単で、バスに乗って町に入ることができます。町は人口も多く、活気があり、商業もさかんです。一方、ネパール側は道路すら通じてなく、町に来ることさえ容易ではないのです。

 私はジャガット・シンという人物と会うためにダルチュラに来ていました。当時、私はシャンシュンについてというより、各地の、あるいは各民族の葬送儀礼について調べていました。彼はセーヤクチャと呼ばれる葬送儀礼を担当する祭司であり、とくに故人の亡魂を送る役目を持っていました。儀礼の際に詠む一種の祭文をセーヤーモというのですが、彼がはじめてそれを文字によって書き表したと聞いたのです。

 私は各地を歩いて回り、死者の魂を安住の地へ送る路線について研究していたので、そういった内容を含むとされるセーヤーモには非常に強い興味をいだいていたのです。

 しかしジャガット・シン氏の家がネパール側にあることがわかりました。はじめ変装してマハーカーリー川に架かる橋を渡ろうかと思いました。パスポートコントロールがないので、正規に国境を超えることができなかったのです。本当に農民のかっこうをして背負い篭を背負って小さな木橋を渡ることまで考えたのです。しかしバレたときのリスクを考えると、正気の策とはいえませんでした。

「しばらく待っていてくれ」

 安宿の汚い壁を背にしてツェワン・ラマはそう言いました。

「待つ? どうする気なんだ?」私はじっとしているのが嫌いだったので、反抗期の子供のように、訴えるような眼で彼を見ました。

「ジャガット・シン氏を連れてくるよ」

 待っていた2時間は無限に長く感じました。ジャガット・シン氏本人を連れてくるより、自分が彼の家に行ったほうがいいに決まっています。彼がどんなところで、どんな生活しているかわかるし、祭壇や法器のようなものを見ることができるのです。写真もあるかもしれません。そう考えると、イライラがつのってきます。

 ようやくツェワン・ラマがもどってきました。しかしいっしょにやってきたのは、眼光は鋭いが、ジーンズをはき、黒シャツを着たどう見ても二十代の若者です。ジャガット・シン氏はたしか五十代くらいの年のはずです。

「こちらはジャガット・シン氏の息子さんだ。シン氏は9か月前に亡くなられていた」

 まったく予期していない展開だったので、私は本当に口をあんぐりあけていたことでしょう。こんな若者に何がわかるというのでしょうか。

 よく見ると若者は分厚い大学ノートのようなものを脇にかかえていました。ようやく気づいたかといった顔をして、ツェワン・ラマは言いました。

「生前ジャガット・シン氏は、このノートに、セーヤーモの内容をすべてヒンディー語とラン語で書き記したのだ。すこし読んでみたが、なかなか面白いぞ」

「そんなことが許されるんですか」

 儀礼にたずさわる者が中身を外部にもらしてはいけない、と聞いたことがあったので、私は心配になってきました。

「ジャガット・シン氏は民族の文化が死滅するのを恐れていたのだ。グワンという本来の葬送儀礼はおこなわれなくなり、ヒンドゥー式が普通になってきている。そのうちジャガット・シン氏のようなセーヤクチャもいなくなってしまうだろう。そうなったときに門外不出にしたところで何の意味があるだろう、と氏は考えたのだ」

 あとでこのセーヤーモの序文を読んで、ジャガット・シン氏がいかに危機感を抱き、民族の文化を残すことに並々ならぬ決意をかためていたことがわかりました。もしかすると自分自身の死が迫っていることも感じていたのかもしれません。

 セーヤーモの目次はつぎの通りです。

1 死の儀礼、あるいは清め 

2 二兄弟と妹との不道徳な性的関係の成り行き 

3 天神の物語 

4 賢い鹿の物語 

5 父と一人娘の不道徳な性的関係とその結果 

6 ネチャンガ(9つの太陽) 

7 ヌ・シミ・ハンガ(新しい死者) 

 ほかの民族の儀礼のときによむ祭文や経文もそうですが、これらは教訓や宗教哲学ではなく、神話・伝説のような物語や物語形式のたとえ話なのです。

 しかしいま注目すべきは7章の「ヌ・シミ・ハンガ(新しい死者)です。これは死んだばかりの者のためのガイダンスなのです。大半が具体的な地名なので、読むのは少々骨が折れますが、亡魂が道からはずれないように細かくそのルートが記述されています。

 亡魂の行き先はキュンルン(チュンルン)・グイバトです。人によって、あるいは地方によってキュンルンと聞こえたり、チュンルンと聞こえたりしました。このキュンルン・グイバトは「キュンルン(ガルダの谷)の9つの山」といった意味になります。

 ボン教徒はカイラース山を「9つのスワスティカ(ユンドゥン)と呼ぶことがあるので、このキュンルン・グイバトはカイラース山を指しているようにも思えます。カイラース山の頂上がいわば浄土であり、亡魂はそこに送られるわけです。

 しかし実際はそうはなっていません。カイラース山の近くなのですが、そこからもう少し先のどこか、なのです。それがキュンルン銀城である可能性は小さくありません。実際にキュンルン銀城に行ってみると、そこが特別に神聖な場所であることがわかります。しかしラン族の人々はそこに行く機会はないですから、現実感としては仏教の浄土の現実感とほとんど変わらないといってもまちがいではありません。

 ここに「ヌ・シミ・ハンガ(新しい死者)」の抜粋を掲載します。魂の導き手であるアマリチャとバリチャが懸命に亡魂に声をかけ、なだめ、安息の地であるキュンルン・グイバトへ行くよう説得していきます。

 

<ヌ・シミ・ハンガ(抜粋)> 

新しい死者よ! 我々は冥界への導き手アマリチャと安息の地の主バリチャである。あなたが重い刑罰を受けることがないよう、我々は最善を尽くす所存であるので、安心しなさい。いまあなたは冥界への道をたどろうとしている。ここに来て間もないあなたは、まだ現世での記憶を保持していることだろう。

現世では好きな物を食べることができたが、こちらで食べられる物といえば花と胡麻だけである。それだけでは飢えを満たすことはできず、喉の渇きも癒すことができない。それどころかあなたは水が欲しくても手に入れることができず、火をつけようと思っても、木を見つけることができない。

新しい死者よ!われわれの言葉をよく聞くのだ。われわれの魔術的な言葉と教えを聞けば、岩を乗り越え、怒涛の川を渡り、もう一つの世界へ行くことができるだろう。冥界へたやすく行くことができるだろう。そこは人間だれもがいずれ行く場所である。あなたはしっかりと、心の準備をしなければならない。

(家から外に出て、坂を上ると)あなたはたくさんの人々に出会う。生前とおなじような感じで会話を楽しんだあと、あなたは彼らに別れを告げなければならない。さらに上がっていくと、とても親しい友人と出会う。お互いに離れられない親友同士だったので、別れ難いが、別れを告げるときである。さらに上がっていくと、村の男と女が道を遮るだろう。あなたは両手を合わせて懇願し、先に進まなければならない。

(このあと具体的な地名や女神の名、寺院、祠などがつづきます。そして国境上のリプ峠に達します)

新しい死者よ! ナマシャナに着いたらお茶を飲む準備をせよ。クシミグラドゥマに着いたら、蛇の守護神の聖水によって水中に棲むインドラ神の眷属ティニュンタを清めよ。それから白いアクシャタによって祀れば、目的地へといっそう近づくだろう。

(そしてついにマナサロワル湖に到着。湖の周囲をまわります) 

バルカタでチャワル牛と出会っても、心配することはない。ドゥキュ・ヤンティ川に辿りついて、困難を感じるが、剣を用いれば川を渡ることができるだろう。

(……)そしてブルンダン山、すなわち白いオガラの山を越える。ムジュラタ川、すなわちインド神話でおなじみのヴァイタラニ川にさしかかると、あなたは難渋することになる。

チャワル牛の助けがなくては、ヴァイタラニ川を渡ることはできない。チャワル牛が拒むようであれば、その右の角に刻まれたしるし、ラタマを示して、あなたに属することを知らしめるがいい。あなたはモニュメントを立て、板を渡して川を渡る。ラクシャタマに着いたら、あなたは白石を捧げるとよい。

そしてキュンルン・グイバトの領域に入っていく。まずは、第一のパトゥだ。

(……) 

第八バトに到着すると、古い魂たちはあなたを歓迎するために集まってくる。あなたは彼らの花の捧げ物を受け取らなければならない。

上がっていって第九バトに着くと、今度は彼らがあなたに贈り物をせがんでくる。しかしあなたは言う、「私はとても貧しい暮らしを送ってきた、だから持っているものといえば三つの胡桃だけである」と。その胡桃を彼らの前に放ると、彼らは休息の場所を離れて胡桃を取り合う。その隙にあなたは空いた席をせしめることができるのだ。こうして新しい死者の魂は祖先の場所を得ることができるのである。

 新しい死者よ! いまやあなたは先祖の場所に席を得ることができたのだから、さまよう必要はない。あちこち歩き回ったところで靴がよれよれになるだけの話だ。この世界ではもう友達を探すことはできない。バダティナチクラという帽子ももう擦り切れるくらいに使われ、ボロボロだ。それゆえあなたは導師である道のプラダルシャクとイスタンのプラダルシャクのことばに耳を傾けよ。そうして今度は来た道をたどってこの世にもどってくることになるのだから。

 

 このように完結部分だけ読むと、童話か昔話のようであまり崇高な感じがしませんが、それは現実的な話をして、死んだばかりの者を怖がらせないという狙いがあるのでしょう。ともかくもこの9番目のバトに亡魂は至ります。ここは安住の地であり、永遠に幸せに暮らすことができるはずなのです。しかしもう一度この世界にもどってくるようなことが書き添えられています。これは転生するということなのでしょう。おなじチベット・ビルマ語族の多くの民族に似た習俗があるのですが、大半はこの永住の地に暮らし、転生することはありません。転生はインド文化の影響かもしれません。

 このラン族の一種の浄土が理想郷だったかもしれません。彼らのイメージのなかでは美化されたキュンルン銀城が、シャンシュンの理想郷だったかもしれないのです。曲龍の谷がキュンルン銀城だと確定したわけではありませんが、いずれにしてもキュンルン銀城というシャンシュンの旧都があり、それが伝説となり、死者の魂が安楽に永住する場所となったのかもしれません。



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