タボ寺院、その他リンチェン・サンポの寺院
もしリンチェン・サンポ(958−1055)がいなかったらどうなっていただろうか、と考えることがあります。ニンマ派のみの仏教で、ジェ・ツォンカパ(1357−1419)が新しい密教経典(ヴァジュラバイラヴァ、グヒヤサマージャ、チャクラサムヴァラなど)をふまえて確立した高度な仏教哲学(それをあらわしたのが『ラムリン・チェンモ』)は存在しないのです。その教えの中核部分はテルトンが発掘したテルマ(埋蔵経典)が中心となり、呪術や魔術が生活のなかで大きなウェイトを占めていたかもしれません。
もちろんこういった推定は無意味なことでしょう。初期の経典のみに依ったとしても、日本の真言宗と変わりはないのです。
実際はどうだったかといえば、ニンマ派は新しい宗派(ゲルク派やカギュ派、サキャ派など)があらわれることによって、ゾクチェンという思考体系を確立することができました。ボン教もまたニンマ派と同様に、ゾクチェンを核とした教えの体系を生み出したのです。
リンチェン・サンポが西チベットのレニ(Rad-nis)に生まれたのは吐蕃(ヤルルン朝チベット)滅亡の百年のちのことであり、仏教もまた衰退期にありました。しかしそれは同時に吐蕃最後の王ランダルマ(仏教を弾圧した王として知られていますが、異論もかなりあります)の孫であるイェシェ・ウーがトリンを都とするグゲ王国を建て、仏教を再興しようという機運を起こしていた時期とぴたりと重なったのです。
彼は13歳のときにイェシェ・サンポによって出家し、18歳のときにカシミールに送られ、13年間学びました。彼は一生の間に、インドで75人のパンディタから学んだと言われています。彼は主席供奉、金剛阿闍梨の位階を授けられました。そしてプランのセル(Zer)に土地を授かり、寺院を建てたといいます。
リンチェン・サンポが師匠のアティーシャに会ったのは1042年、85歳のときのことです。アティーシャはリンチェン・サンポに通訳を頼みます。さすがに高齢を理由に断るのですが、目の前にして依頼するほどですから、よほど元気だったのでしょう。高齢者の鑑です。リンチェン・サンポが没したのは1055年で、98歳でした。大往生です。
リンチェン・サンポは信じられないほど多くのサンスクリット語仏典を訳しただけでなく、100以上の寺院を建てました。その代表的なものがスピティのタボ寺院であり、グゲのトリン寺院なのです。スピティのラルン寺やキナウルのプーやナコの寺院もそうでしょう。ラダックのアルチ寺院はリンチェン・サンポが建てたものではありませんが、時代は少し後で、似たスタイルの寺院といえます。
私が着目しているのは、これだけのインパクトを与え、建築物や壁画がすばらしいものであったにもかかわらず、その寺院のスタイルは直接的には継承されなかった点です。あたかもそれがインド様式で、チベット様式は別にあるかのようなのです。それからしばらくすると、チベット人は円錐形の丘の上や崖の上に寺院を築くようになりました。それはなぜでしょうか。
シャンシュン国の時代からチベット人は要塞や宗教施設を峻険な自然のなかに築いてきました。いま、洞窟を掘る必要はなく、崖の上にでも寺院を建てるだけの建築技術を会得しています。そうして長い年月の間に獲得された遺伝子によって、寺院を平地ではなく、人間業ではできないような場所に建てるようになったのではないでしょうか。
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