タボ寺院の秘密 

 タボ寺院(チューコル)はとても古いお寺というイメージがあります。実際、ラルン寺やナコ寺、トリン寺と同様、大ロツァワ(翻訳官)リンチェン・ザンポ(9581055)によって(おそらく総監督としてカシミールの建築家を呼んで)建てられたとされていて、ざっと言って創建千年ということになります。

 しかし、別の見方もあるのです。ボン教やシャンシュン三千年の歴史においては(もちろんこれは大雑把な数字です)新しいとさえ言えるのです。キリスト教の教会が地元の異教の聖地の上に建てられることがあるように、それまで地元民が聖地としてあがめてきた場所に仏教寺院が建立されたともいえるのです。

もちろん古ければいいというものではなく、信じがたいほど多くのサンスクリット文献をチベット語に翻訳したリンチェン・ザンポの偉業が揺るがされることはありません。しかし新しいものが偉大であるがために、古いものの価値がわからなくなってしまうこともしばしばあります。

 まずタボ寺院の敷地の隣に残る108のチョルテン群の遺跡が大きな謎なのです。どのチベット寺院を訪ねても、チョルテン(ストゥーパ)は大切にされています。このチョルテン群はなぜ打ち捨てられてしまったのでしょうか。

 
タボのチョルテン群の遺跡(左)。グゲ領内(ミラム)のチョルテン群よりも古そうである 

 考えられるのは、もしそれが仏教のチョルテン群だとしても、リンチェン・ザンポのグゲ王国とは異なる勢力の所有物であったということです。このあたりはシャンシュン王国の一部であったと考えられるので、シャンシュン王国の仏教のチョルテン群ということになります。シャンシュンといえばボン教というイメージがありますが、吐蕃よりも早くから仏教が取り入れられていた可能性があります。あるいはこれがボン教のチョルテンであった可能性も捨てきれません。ボン教の仏教化はすでにはじまっていました。そうだとすれば9世紀頃に造られたのかもしれません。

 つぎに注目したいのは洞窟群です。いままで見てきたように、シャンシュン国があったところにはかならず洞窟群が存在します。タボの洞窟群はけっして大きくはありません。そのためタボ寺院に付属する修行窟とみられがちです。しかし修行窟にしては規模が大きく、当初の目的はそれではなかったことがわかります。*O・C・ハンダは、タボ寺院が建立された当時、僧侶は洞窟群に居住したと推測しています。当初の設計プランには僧房が含まれていないのです。またインド式の壁画についても言及しています。(私自身は確認できませんでした) 

 
タボの洞窟群は小規模だが長く連なっている 

 もうひとつの注目点は、タボ寺院の隣に広がるリンゴ畑のなかに広範囲にわたって点在する岩絵です。岩絵というものは年代決定がむつかしいのですが、西チベットからラダック、パキスタン北部(チラースやフンザ、ギルギット)などの岩絵と比較すると、2千年前ぐらいでしょうか。もちろんチベット語のマントラなども書かれているので、タボ寺院が建てられた当時はまだ岩絵が活きた存在であったと考えられます。

  
紀元前と思われるラダックやチラースと同系統の岩絵(左)。千年前(?)のストゥーパ(中央)。マントラ「オーム・アー・フーム」 

 タボ寺院の敷地内や隣接する地区ではありませんが、それほど遠くないところに岩絵群があり、そのなかにガルダとナーガらしき絵があります。このガルダはシャンシュン国の中心地のひとつ、西チベットのルトクにある岩絵のガルダとそっくりです。ナムカイ・ノルブは4万年前に描かれたと推定していますが、その推定は受け入れがたいものがあります。そもそも4万年前なら、到底それをボン教やシャンシュン国と関連づけることはできません。しかし2千年前なら、だれも否定することはできないでしょう。

 
翼を広げるガルダとその足に捉えられる蛇のようなナーガ(左)とボン教のユンドゥンを思わせるまんじ(卍)  

 これとは別のそれほど離れていない場所にはユンドゥン(卍)の岩絵もあります。これらが同時代のものと確認することはできませんが、ボン教が古くから存在したか、ボン教につながる古い信仰があったことの証左といえるのではないでしょうか。


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