チベットの理想郷を探して 宮本神酒男 

補遺1 送魂路の果ての理想郷 


蕎麦の白い花の前を羊飼いと羊の群れが過ぎていく。(遊牧民は)水草を逐(お)って移動した(「史記」匈奴列伝)を思い出した   

 チベット・ビルマ語族という言語学上の民族グループがあります。日本人には「おなじ語族」という存在がないため、観念的に非常にわかりにくいかもしれません。彼らは数千年前、もしかすると一万年前にはひとつの部族だったかもしれません。殷代の甲骨文字にも現れる羌という文字がチベット・ビルマ語族を指しているかどうかはわかりませんが、漢代の頃の羌人は彼らの祖先とほぼおなじだったのではないでしょうか。ただし二千年前の時点では、古代羌人は落下する花火のように拡散しているさなかで、南西方面はヒマラヤ山脈を越え、南方へは東南アジアにまですでに達していたと思われます。

 チベットを研究していると、ついチベットおよびチベット人だけが特別な国、特別な人々のように思えてしまいます。その文化、歴史、風景、精神性の高さなど、特別な点がたくさんあるのはたしかですが、しかしカチン族やグルン族、ラフ族やイ族などと同様、数百種類のチベット・ビルマ語族のひとつにすぎないともいえるのです。チベットが独立した国家ではないいま、チベット・ビルマ語族が主体となって国家をなしているのはミャンマーとブータンだけです。チベット・ビルマ語族のほとんどは小さな集団にすぎません。しかし彼らの間には一つの国の人々であるかのような相通ずる点があり、互いに理解しあえる特徴があるのです。

 その一つが送魂路(中国語で指路経)です。ボルネオ島サラワク州のブラワン族の霊魂がカヌーに乗って川をさかのぼっていく信仰など、亡魂が先祖の来た道をたどるケースは珍しくありません。しかし世界でチベット・ビルマ語族ほどこの習俗を多く持っている民族はないでしょう。

 人が死んだとき、その魂はシャーマンや祭司に導かれて民族の原郷(起源地)に帰されます。そのいわば亡魂の路線は数十、ときには百か所以上の途中の村や山や川などの地名(ストップオーバー)を含みます。送魂路を調べれば、驚くべきことに、いや当然の帰結ですが、起源地がわかるので、この民族がどこからやってきたかがわかるのです。

 もちろん事はそう簡単にはいきません。地名が古く、一般に知られている名称と異なるため、名前がはっきりわかっても、それがどこにあるのかわからないことが多いのです。

「なんだ、結局何もわからないのではないか」
 そう結論づけるのは早計です。民族の伝承や地名の意味を調べれば、ある程度はわかってくるのです。決定的なことがわからない場合でも、2つか3つの候補にしぼることは可能なのです。


雲南省シャングリラ県トンバ村  

 私は2000年代のおよそ十年間、時間があればこの送魂路について調べて回りました。中国内のイ族や、ナシ族、プミ族、ハニ族、ラフ族、リス族、ドゥロン族などのほか、ネパールのリンブー族やグルン族、マガール族、さらにはインド西北のキナウル地方にまで調べに行きました。(「キナウルのカイラースから冥界へ」参照)

 この送魂路のすべてとは言いませんが、一部はあきらかに河湟地区へと伸びています。河湟地区とは、黄河上流と湟水が流れる青海省東部から甘粛省北部にかけての地域をさします。まさに太古の昔、チベット・ビルマ語族の祖先である羌人が住んでいた地方なのです。

 この原郷はいわば民族にとっての理想郷です。そこは仏教的ではない浄土なのです。そこでは先祖は生前でもっとも美しい姿をとり、年を取ることなく、永遠に幸せに生きていくことができます。「祖先」といっても遠い祖先のことだけではありません。もしあなたが今日死んでも、明日には(あるいは近日中に)先祖のひとりとなり、原郷の住人となるのです。

 先に述べたように、チベット人はある意味、チベット・ビルマ語族の数百の民族のうちのひとつにすぎません。逆に言うなら、チベット人もナシ族やイ族、プミ族、ハニ族のように送魂路を持ち、亡魂が送られて祖先のひとりとなって理想郷に住んでいてもおかしくないのです。残念ながらチベット人に送魂路の痕跡を見出すことはできません。いわば枕経である「チベット死者の書」があり、僧侶によって、よき転生が得られるよう魂が送られることはあっても、原郷という安息の場所に送られることはないのです。

 しかしネパール北西部のニンバ族(彼らはチベット人の一種です)はいわば迎神路(シャーマンが神を呼ぶときに地名を読み上げる路線)を持ち、そこに先祖がたどってきた路線を見出すことができます。仏教が入ってくる前には、亡魂を原郷へ送る習俗があったのではないかと想像できます。

 チベット・ビルマ語族の先祖は遊牧民でした。古い中国の言い方を借りるなら、「水草を逐(お)って移動する」(『史記』匈奴列伝)というふうにして南方にまでやってきたのです。遊牧民にとって家畜のための水草はとても重要です。水草のあるところに家畜とともに移動しているうちにずいぶんと南のほうにやって来てしまいました。北方の草原地帯では純粋な遊牧生活を送っていたのですが、現在の中国西南にまで来ると、農耕をおこなう必要性が生じ、次第に半農半牧の生活にかわっていったのです。


トンバ村の竜の祭り 

 イ族やナシ族が典型的な例といえますが、夏になると遊牧民のように羊などの家畜の放牧をおこないます。村で羊を飼うとエサをやるのがたいへんですが、野山をかけめぐれば、食べ物の草はどこにでも生えているのです。村では女性を中心に農耕に従事します。小麦、大麦、蕎麦、トウモロコシなどを育てるのです。遊牧民からすると信じがたいことですが、村ではブタを飼育します。南方ではブタが重要な家畜になるのです。女性たちがブタの放牧をおこなう姿もよく見かけます。このあたりのブタの足腰が強く、しっかりした肉づきをしているのは当然のことなのです。

 モソ(ナシ族の一種で自称ナズ)の送魂路とナシ族の送魂路をいくつか見比べてみると、両者にスブアナワという重要な地名があることに気づきます。これらの路線は河湟地区まで伸びているのではなく、20キロくらい北方にある稲城県のコンガ山が最終地点のように思われます。コンガ山は山頂が尖ったかわった形をした聖なる山です。ここがナシ族の聖なる山ジュナルァラだと主張する人々もいます。その可能性は十分にあります。

 スブアナワはどうやら地上最後の村か、境界線上の村のようです。この村自体が理想郷なのかもしれません。また、ナシ族にとっては最重要ではないのですが、モソにとっては浄土のような場所なのかもしれません。

 いずれにしろ、一線を越えるとそこは天界の一部のようです。山の麓、中腹と上がっていき、そして山頂に達します。この山頂に理想郷があるのかもしれません。あるいはここが特異点で、そこから理想郷である天界に進めるのかもしれません。

 私が直接取材したモソの若手のダバ(祭司)はスブアナワのあとにオモルリという地名を挙げていました。彼らにとっての浄土であり、理想郷なのです。このオモルリはあきらかにボン教のシャンバラというべきオルモルンリンのことです。私はダバの口からオモルリ(オルモルンリン)という言葉が発せられるのを聞いて本当に驚きました。チベット・ビルマ語族の共通する理想郷はオルモルンリンにちがいないと確信しました。

 オルモルンリンは古代シャンシュン国の中心地だった西チベットにあったのかもしれませんが、ボン教学者の多くはそれがタジク(ペルシア)にあったと考えています。ペルシアといっても、いまのテヘランあたりより、中央アジア、とくにオクサス河、シーター河(タリム盆地)のほうが優勢な候補地のようです。

 しかしよく考えてみれば、モソの地域にもボン教の寺院があり、トンバ教やダバ教の成立に影響を与えた時代でなくても、この百年の間もボン教は身近な存在でした。オルモルンリンはあらたに付け加えられた理想郷(浄土)なのかもしれません。

 Photo by Mikio Miyamoto
ナシ族の葬送儀礼のときに作られたもの。三角形の鉄(鍬の一部)はジュナルァラ山を表しているのだろう。杯は湖(マナサロワール湖?)か、南贍部洲なのか。穀粒に刺さった枝は如意樹だろうか。

 さて、話をジュナルァラ山に戻しましょう。この聖なる山は、もしかすると須弥山かもしれません。ジュナルァラのジュナはナシ語で大山を意味しますが、ルァラはチベット語で須弥山を表すrirabが訛ったものではないかと思うのです。そうすると仏教的な色が濃くなります。あるいはこの須弥山はカイラース山を表しているのかもしれません。カイラース山の頂上から天界(理想郷)に入り、そこで永遠に幸福に暮らすのです。

 カイラース山 Photo by Mikio Miyamoto

 すでに述べたように、ナシ族のトンバ教はチベットの古代ボン教ととてもよく似ています。ボン教とともにカイラース信仰がナシ族の地にやってきたのだとすると、この理想郷は古代チベット人の理想郷であったのかもしれません。



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