謎のダルド人 

 ダー村出身の花売りの女性。踊りにも参加していた 

 新疆ウイグル自治区ウルムチの博物館の「売り」のひとつは、楼蘭などで発掘された保存状態のいいミイラです。そこを訪ねたとき、たまたまヨーロッパから来た団体客と居合わせたことがあります。展示されているミイラを取り囲んで見ていた彼らは絶叫に近い感嘆の声をあげていました。3500年前の男性のミイラがあまりにも西欧人に似ていたからです。私の目にもミイラは、長髪でひげを生やした初老の北欧人に見えました。「期待して見ると、そう見える」という面もあるかもしれませんが、しかしどう見ても白人男性なのです。問題は彼が商人や使者なのか、それとも定住者であったかです。

 「アーリア人侵入説」そのものは近年否定されつつありますが(⇒「超古代サラスヴァティー文明」)、インド・アーリア人のもととなるようなコーカソイド人が、中央アジアからインド方面へ、長い時間をかけて移動してきたことに異を唱える人は少ないでしょう。インドにリグ・ヴェーダをもたらしたのはそういった人々なのですが、それ以前も、またそれ以降も、アーリア人がヒマラヤを越えてきたのです。

 一部の人はチベットにもやってきたはずです。人間が暮らしていくには自然環境が厳しすぎるのではないかと思われがちですが、温暖な時期も長くあったといわれていますし、人間は思った以上に適応能力をもっているのです。

 いっぽうで北東方面からチベット高原へ入ってくる人の流れがありました。羌人の移動です。この場合の羌人は、チベット・ビルマ語族と言い換えてもいいでしょう。チベット・ビルマ語族の分布を見ると、「入」という漢字をやや右に傾けたような形で広がっていったことがわかります。

 大きなスケールでながめると、吐蕃(ヤルルン朝チベット)は北東から流入する羌人の流れの上に成り立っているように思われます。いっぽうのシャンシュン国は、アーリア人そのものではありませんが、彼らの南下に大きく影響されているように思われます。

 こういったアーリア人を漠然とダルド人と呼んできました。アフガニスタンのパシュトゥン人をも含めることがあるので、民族学的、言語学的には漠然としすぎていますが、ダルド人という名称は一般的に受け入れられています。プトレマイオス(83?−163?)の書にはダラドライ(Daradrai)として登場するので、その存在が古くから知られていたことがわかります。

シャンシュン国を形成していた人々の一部はあきらかにダルド人でした。これが意味するのは、シャンシュン国やボン教が中央アジアの影響を強く受けていたことです。よく言われるように、「浄土」の思想と概念はインドではなく、中央アジアで生まれました。するとチベットやシャンシュンの浄土、言い換えれば理想郷の概念も、中央アジアの影響を受けている可能性があるのです。

 ラダックを歩くと、そこが人種の坩堝(るつぼ)であることがわかります。茶色の瞳をもつチベット仏教徒も珍しくありません。その代名詞的存在といえるのがダー、ハヌー村の人々です。以前からよくラダックには白人の村があるという「伝説」を耳にしました。それがずっと気になってしょうがなく、いつか行こうと胸に秘め、数年前、ついにダー村を訪ねる機会に恵まれました。

 
ダー村の子供たちと若い女性。この村はチベット仏教徒 

 正直言って、予想した以上にいろんなタイプの顔を見ることになり驚かされました。とくに子供には「アメリカの白人の子供のような顔」を見かけたのですが、おとなは中央アジアでみかけるタイプの顔が多かったのです。

語彙を調べると、ヒンディー語に近いものでした。つまりサンスクリット語の系統の言語なのです。インドなのだから当然と思われるかもしれませんが、このあたりだと、ヒンディー語に近いのは逆に不思議なのです。

 彼らはシン人と呼ばれ、言語はシナ語です。シナといっても、中国人とはまったく関係ありません。大半はパキスタンのギルギット周辺に住んでいて、ダー、ハヌーやドラスに飛び地のような居住区があるのですが、その理由はわかっていません。

  
左からギルギット、フンザ、バルチスタンで会った女の子 

1300年前、バルチスタン地方は大ボロール(大勃律)、ギルギット地方は小ボロール(小勃律)と呼ばれていましたが、両国ともチベットの支配下に入りました。そのときに移住させられた屯田兵の子孫なのかもしれません。

ただ村人は、移住してきたのはもっと昔の話だと語っていました。もしかするとダルド国というような国があり、西チベットあたりまで版図を広げていたのかもしれません。そうするとダー、ハヌー村の住人はダルド国の遺民ということになります。

ラダックのシン人は基本的にはチベット仏教徒です。ダライラマ法王がラダックのチョグラムサルで、1万人の信徒を前に講話をされたときには、花飾りをつけたダー村の女性たちがエキゾチックな踊りを献じました。

 サトパラ湖 

 
磨崖仏(中央)と左右のマイトレーヤ(弥勒)。小さなブッダは過去仏。右は碑文 

 はっきりとしたチベットの遺跡としてもっとも西に位置するのは、パキスタン北部バルチスタンのサトパラ湖近くのハルギサ・ヌッラの碑文です。この碑文は相当の量があるのですが、文字が不鮮明で、これまで十分に解読されたとはいえません。一部解読されたのですが、日時や目的、固有名詞、人名など特別な情報は含まれていません。歴史家や言語学の専門家に、ぜひ全面的な解読に挑戦してもらいたいものです。

 この磨崖仏および碑文が彫られたのは、西暦1000年よりは前だろうといわれています。もし西暦1000年に近いとすれば、三百年くらいチベット人がこの地域を支配していたことになります。

 バルチスタンにはスカルド、ハプル、シガル、カルタクショーの4つの国がありました。この磨崖仏と碑文がある場所はスカルドの領域内です。このスカルドおよびカルタクショーの王はマクポン(チベット語で将軍の意)と呼ばれ、チベット軍の将軍がそのまま支配しつづけたことが想像できます。シガルの王はアマチャと呼ばれますが、これは創始者の名に由来する称号です。ハプルの王はヤブクと呼ばれますが、これはテュルク語で王子を意味します。

そもそもバルチスタンの言葉はチベット語の方言なのです。チベット文化はついえてしまいましたが、その文化はわずかながら残っています。英雄ケサル王物語はそのひとつでしょう。チベットでは仏教信仰と深く結びついているこの英雄叙事詩も、ここでは仏教と切り離されているのです。

 バルチスタンは徐々にイスラム化していきます。それが決定的となったのは、15世紀にヌールバクシュがやってきてからでしょう。サイド・アリ・ハマダニの弟子であり、甥であるサイド・モハマド・ヌールバクシュがバルチスタンに来たのは、1438年頃から1448年頃のこととされています。このシーア派スーフィの教派はバルチスタン、とくにハプルとシガルに多数の信者を現在も保持しています。

 

 もっと西方にあるギルギットのカルガー大仏はどうでしょうか。チベット語の碑文はありませんが、チベット軍がこの地域を支配下に置いてからこの磨崖仏はつくられたのでしょうか。そもそもこの地域はガンダーラからはるかに遠いというわけではありません。磨崖仏の本場はスワート(別名ウッディヤーナ。パドマサンバヴァの生地かもしれない)ともいえるのです。

 ギルギット文書はどうでしょうか。この仏教の経典群がギルギットで編集されたとは思えず、10世紀頃、ガンダーラやスワートで、略奪されるのを恐れて安全なギルギットに運ばれたのかもしれません。そうだとすると、チベット人がやってきて以来、ギルギットのダルド人(シン人)は信仰心の篤い仏教徒だったのかもしれません。

 しかしチベット軍が来る以前は、むしろシャンシュン国と強い結びつきを持っていたと思われます。シャンシュン国の版図の西端にブルシャ(ギルギット地方)が位置するといわれてきたからです。シャンシュン国の古い氏族であるブル氏は、このブルシャからきているといわれます。

 
キナウルの人々もエキゾチック 

 ただこのブルシャの人々がボン教徒であったかどうかは、微妙な問題です。もしかするとゾロアスター教やマニ教などのペルシア系の宗教を信じていた可能性があるのです。ボン教の創世神話は、引き写ししたのではないかと疑うほど、ペルシア系の創世神話に似ているのです。ササン朝ペルシア(226651)の時期にギルギットにペルシアの宗教が伝わり、さらにはチベット高原に伝播したのかもしれません。

バルチスタンで出会った一家 

 このように考えると、ダルド人の役割はたいへん重要です。彼らはペルシア文化をシャンシュンに伝達したか、あるいは彼ら自身がシャンシュン国の一員となったかのように思えるのです。神話や伝説が伝わったとき、シャンシュン人やチベット人の理想郷という概念に大きな影響を与えたにちがいありません。

 
ハプルの王様(ヤブク)と英雄ケサル王物語の吟遊詩人 バルチスタンにて 

⇒ つぎ