時をかける猫とぼく  ロイド・アリグザンダー 

 

3 ネテルケット王 

 背後で重い石の扉がバタンと閉まった。ジェイソンは思い切りこぶしで扉を叩いた。彼はけっして首席書記官の口達者な言葉を信じなかった。怒りの炎を燃やしながら、なぜこうも自分は簡単にだまされてしまうのだろうかと考えた。彼は頑固な扉に何度も体をぶつけた。そのうち、くたくたになって、地面にくずれおちた。いま、ギャレスはいない。ジェイソンは人生の残りをこのネテルケット宮殿の石造りの牢獄のなかで過ごさねばならないのだろうか。少年は両手で顔を覆い、肩を震わせてむせび泣いた。「すくなくとも」と彼は自分自身をなぐさめた。「エジプト人は猫を愛している。ギャレスはよく面倒をみてもらっているはずだ」

 ジェイソンにとって意外なことが起きた。しばらくすると扉がひらき、副小書記官がなかを覗き込んだのだ。ジェイソンははいつくばって逃げようとしたが、副小書記官の後ろにいたふたりの警護が少年をがっちりと取り押さえた。そして両側から彼の腕をとり、独房から引きずり出すと、大広間の円柱のあいまをぬうように行進させた。ジェイソンはついには自分がどこにいるのかわからなくなった。回廊の端に巨大な部屋があった。そのなかの壇の上に、彫刻が施され、装飾された玉座があった。そこに座っているのがネテルケット王だった。

 王のかたわらに立っているのは、ハエたたきや鳥の羽根の団扇がついた宝飾の棹(さおを持つ奴隷たちとトランペットやシンバルを持つ演奏家たち、そして苦々しい表情を浮かべた首席書記官本人だった。玉座の前に座っているのはガレスである。ジェイソンが猫を観察すると、猫はカブトムシや何かを見るのとおなじように興味津々というふうにネテルケット王を見ていた。ジェイソンにはさほど興味深いものには思えなかった。

「偉大なる王よ、永遠であれ」と首席書記官は言った。「これが神像の後ろに隠れていた不届き者です。ここではこいつの存在が役に立つでしょう」

「ほう、それなら会ってみようか」とネテルケット王は言った。

 立派な細長い頭飾りをかぶり、礼服を着て、胸の前で腕を組み、聖なる権威の象徴である羊飼いの杖と殻竿(からざお)を持ったファラオ(王)は、玉座の間の神像とほとんど変わらないように見えた。しかしネテルケット王の顔は暗く、眉をひそめていた。怒りを抑えることができないとでもいうような、苦虫をつぶした表情だった。

「朕(ちん)はこの猫に命ずる、ファラオのために遊び、楽しませよ」ネテルケット王は頭のてっぺんから甲高い声を発した。

 演奏家たちはシンバルをジャーンと鳴らした。奴隷たちは「命! 健康! 強壮!」と叫び、ハエたたきをパタパタとふるった。

 ギャレスはピクリとも動かなかった。

「さあ、こっちに来るんだ、ぼうや」首席書記官はやじるかのように言った。「猫を楽しませてくれ」

 ジェイソンは躊躇しながらもギャレスのかたわらの床の上にひざをついた。奴隷のひとりがオモチャを投げ込んだ。それは宝石で飾られたネズミで、黄金の鎖につながれていた。ジェイソンは猫の前で鎖を引いたり、前に投げたりした。しかし猫の両耳やヒゲはゲームをする気にはならないと告げていた。

 ジェイソンはオモチャを床に落として、頭を左右に振った。「どうやら猫は遊びたくないみたいです。ぼくにはほかにできることはありません」

 ネテルケット王はそれまでに増して怒りを煮え立たせているようだった。

「朕は命ずる! 猫がゴロゴロのどを鳴らし、ファラオの言うことを聞くようにせよ!」王はそう叫んだ。

 またもシンバルの音が響き渡り、「命、健康、強壮!」という叫びが聞こえた。

 首席書記官は粘土板を手に取った。「これは命令である」と彼は言った。「ゆえにここに書き記される。うえにそれはなされなければならない!」

 ギャレスはそれでも動かなかった。ジェイソンはどうしようもないというふうに肩をすくめ、ガレスを抱き上げると、ネテルケット王の膝の上に置いた。王は猫を撫で始めたが、猫は両耳を下げ、目を細めただけだった。猫は体をねじって王の腕からするりと抜け出し、ぴょんと跳んで床の上に降り立った。

「いてーっ!」ネテルケット王は親指を口に含んだ。ギャレスの爪のひとつがたまたま王の手を引っ掻いてしまったのだ。ファラオは怒りでますますその編んだヒゲをプルプル震わせることになった。

「ごめんなさい」ジェイソンは言った。「いま遊ぶ気分じゃないみたいです。いま何にたいしても同意できないみたいです。個人的なことではないのですが」あわててジェイソンは言葉を加えた。「それが猫というものですから」

「それは明々白々」首席書記官は言った。「つまりこの少年は用済みということだ」

「猫をブバスティスへ返却せよ」ネテルケット王は命じた。「この猫は朕を好きではないようだ。引き続き調査せよ」

「少年はいかがいたしましょうか」書記官はたずねた。「聖なるワニはいつもおなかをすかしております」彼は楽しそうに提案した。

 ネテルケット王は目を閉じ、うなずいた。

「つまり命じられたのだ」首席書記官は粘土板になにやら記し、「それはなされねばならない」と言った。彼はしぐさで警護のものらに命じた。

 またしてもジェイソンは取り押さえられ、広い回廊におっぽり出された。彼はギャレスにしがみつき、頬の毛がふさふさしたあたりを押さえた。「ぼくになにがあってもかまやしない」ジェイソンは恐れおののきながら、ささやいた。「命じられたのに、ファラオを喜ばせなかったので、ぼくはうれしかったよ。きみはありのままでいたわけだ。すべては計算づくのこと。心配しないで」ジェイソンは付け加えた。「聖なるワニはまだ腹をすかしてはいないさ」

 ジェイソンの背後で叫び声があがった。警護たちが止めたのは羊飼いの杖と殻竿を振るネテルケット王本人だった。「猫を戻せ! 少年もいっしょに戻せ」

 ジェイソンとギャレスが玉座の間に入るやいなや、シンバルがジャーンと鳴り、トランペットが吹かれ、奴隷たちが団扇をいっせいにパタパタとあおりだした。「この愚かなパタパタはもうやめよ」ネテルケット王の命令がとどろいた。「出ていけ。みな出ていくのだ。おまえもだ」と、殻竿(からさお)で首席書記官をさしながら王は言った。

 からっぽになった大広間で、ネテルケット王は疲れきり、階段をのぼって玉座に座ることもできなかった。かわりに王は壇のはしに腰を下ろした。彼は頭飾りや付け髪をはずし、驚いたことに、編んだヒゲまでもはずした。それらがないと、ネテルケット王の怒りも半分くらいまでに減っているように見えた。

「前回お前たちがここに来たとき」とファラオは言った。「できることは何もない、とたしか言ったよな。持ち込まれたすべての猫におなじようなことが起きたのだ。すべての家臣は朕を崇拝する。朕は神であるからな。奴隷たちはいまエジプトにすばらしいピラミッドを建設しておる。だからあの世ではさぞ安楽にクラスことができるだろうよ。だが朕には自分のひざにのせる猫がおらんのだ。結局ふたりはどちらも聖なるものなのだ。それはわしを超えておる。絶対に超えておる 

 ネテルケット王は意気消沈し、幸せではないように見えた。ジェイソンはファラオをかわいそうだと思った。

「朕がどれだけ自分自身の猫を欲していたか、おまえには想像もできないだろう」ネテルケット王はもの思わし気に言った。猫をなで、猫が遊ぶのを見るだけでもいい。朕が子どものときはいつも猫を飼っていた。猫は朕のことをいたく気に入ってくれた。朕がファラオになってからというもの、猫たちはそれまでの半分も朕のことを気にかけてくれなくなったんだよ」

 ジェイソンはしばし考えた。「よくわかりません」と思案のすえ、そう答えた。「ファラオになる前、そんな頭飾りやヒゲをつけていましたか。それが猫たちを怖がらせたんですよ。それにもうひとつ」彼は付け加えた。「そんなにしょっちゅうどなっていましたか。猫たちはどなられるのが嫌いなんです」

 ネテルケット王の目が輝いた。「それだ、それにちがいない」

「もしそうなら、どなりつけなければ、猫たちはあなたのまわりに戻ってくることでしょう」

「おお、たしかにそうだ。だが朕が命じても、猫は遊んだり、喉を鳴らしたりしなかったぞ」

「そんなこと期待していたんですか。そんな猫、世界のどこを見たって、いませんよ」

「だが朕はファラオだ。命令を下してこそのファラオなのだ」

「でも猫にとっては、ファラオかどうかなんて意味がありません。だれもそのことについて指摘しなかったんですか」

「だれも朕に言うてくれなんだ」ネテルケット王は考え込んだ。「朕は猫どもに言おう。そもそも猫たちは朕の猫だ、そうだろう?」

「ある意味、そうです」ジェイソンは言った。「あるいはそうではありません。猫はあなたに所属します。だけどあなたは猫を所有することはできないのです。そこには違いがあるのです」

 ギャレスは忍び足で憂鬱そうなファラオのもとに近づいていった。そしてネテルケット王のかかとのあたりに頭をこすりつけた。

「聞いてくれ!」王は叫び、それから口の前で手をポンポンと叩いた。「みなのもの、聞いてくれ! 猫がゴロゴロと喉を鳴らしておるぞ」と王は喜びを隠しきれなかった。

「ぼくが申したとおりでしょう」とジェイソンは言った。「機会を与えれば、どんな猫でも愛想はいいのです。猫たちは自分たちのペースで生きていこうとします。自分たちがしたいときに遊んだり、喉を鳴らしたりします。ときにはあなたは待たなければなりません。このことが理解できたなら、猫を探し出すのに苦労することはないでしょう。猫が猫らしくあるだけで、あなたはとても楽しいはずです」

 ギャレスはピョンピョンと跳んで、だれも座っていない玉座に落ち着くと、人間たちのほうを観察した。ネテルケット王がファラオでいる間、いかに短気で怒りっぽいかを考えながら、ジェイソンは立ち上がり、ガレスを抱き上げた。

「いや、おい、猫はそのまま置いてくれ」とネテルケット王。「今日、朕は何かいいことを学んだぞ。ファラオの命令でも猫は言うことを聞かない、ということをな」

 

 のちにネテルケット王は首席書記官を呼んだ。「王室公文書にだな」王は命じた。「この猫は朕の所有物として記録されたはずだな。それをあらためよ。この猫も、ほかの猫も、この大いなる家に住む猫は所有物とは呼ばれない。ファラオは猫の主人ではない。猫のホストであり、特権を持った友人なのだ」

「ハッ、そのように記します」首席書記官はこたえた。

 ネテルケット王はジェイソンのほうを向いて言った。「朕はそなたとそなたの猫がここに住んでくれたらうれしいでござるぞ」

「そうしたいところではあります」とジェイソン。「しかし旅はまだまだ長いのです」

 ネテルケット王はうなずいた。「ならば好きにせよ」

 ファラオは首にかけていた黄金のアンク十字架をはずし、ジェイソンの首にかけた。

「平安な旅でありますように」とファラオは言った。「おまえはウバステ女神からよこされたのではないかと思ったよ」

 大いなる家の外に出たジェイソンとギャレスは、川へつづく道をたどった。「まあ、ともかく」とジェイソンは言った。「命令ばかり大声でどなりたてても、ろくなことはない、とネテルケット王は気づいたみたいで、よかったよ」

「とくに猫にたいしてね」とギャレス。「人々にたいしてもですね、もちろん」

 夕暮れ時、空気はふるえていた。ブバスティスからは、はるかに遠くなったけれど、ジェイソンには「大いなる猫にささげる賛歌」が聞こえていた。

「気がついているだろうけど」とジェイソンは言った。「ギャレスのヒゲは太陽の光線のように見えるんだ。それに目の中に好きな時に月を浮かべることができるからね」

「エジプト人はそう言ってますね」ギャレスは答えた。

「そういえば、ギャレス」とジェイソン。「どうして試してみないんだい?」

「いまじゃないでしょ?」とギャレスはウィンクした。

 そしてエジプトは消えた。


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