時をかける猫とぼく ロイド・アリグザンダー
紀元前55年のローマ帝国とブリテン島
4 年老いた猫の仲間たち
ブバスティスの広い大通りはいつのまにか細くなり、群衆でごった返していた。ここはローマの市街地だ。どちらへ行くべきかわからず、ギャレスをしっかり抱きしめながら、ジェイソンは周囲を見まわした。動こうとしたそのとき、だれかの手がジェイソンの肩の上にのった。
「ここに探していた猫がいるぞ!」
深くきっちりとヘルメットをかぶり、チュニック(ローマ時代の外衣)をベルトで締めたふたりの兵士がジェイソンの真横に立った。短くて太い、実際的な剣が腰から下がっていた。ひとりの男の額には、走り書きしたような傷あとが光り輝いていた。
「そこにとまれ。われわれは何もおまえたちを食おうってんじゃない」傷のある男がニヤリと笑った。「ローマじゃ、老いた猫はベルベットの脚を持っているのさ」
「ギャリアじゃツメもな」もうひとりの男が言った。彼は仲間より背が低かったが、頑丈で、革のように硬かった。
「さてそれじゃあ」と第一の男は言った。「レポートを聞くとしようか」
兵士は直立不動の姿勢をとり、腕を振って敬礼した。「マルクス・アリウス・バッスス、老猫百人隊の隊長、ガイウス・ペトロニウス・ヴァレンス殿に申し上げます。中隊のために猫一匹を確保しました。ミッション完了!」
「おまえは何と言う?」ペトロニウスという名の男がジェイソンにたずねた。「カエサルの軍隊に加われる猫なんてそうはおらんぞ。われわれにはマスコットが必要なのだ」彼は付け加えた。「二重の意味でな。百人隊はガリアに戻るよう命じられたところだ」
「いつもわれわれは猫を連れていく」アリウスが割って入った。「幸運を招くものとしてな。われわれは猫のエンブレムをつけておる。名前もそこから取られているのだ」
「生きた猫が必要だ」とペトロニウス。「猫のいない老猫百人隊? 恥ずかしくて顔を上げてパレードに参加できないぞ」
「この前の猫は、耳の垂れた雄猫とトンズラしやがったからな」とアリウスは説明した。「それは起こるべくして起きたのさ」その語調は批判を帯びていた。
「だから」ペトロニウスはアリウスの発言を無視しながら言った。「猫をいただいたら、すぐにガリアへ向かうことになる」
彼は手を伸ばしてきた。
ギャレスは唇をめくり、フーっとうなった。
「いや驚きだ」百人隊の隊長は叫んだ。「これが軍隊猫のやり方ってもんだ。歯を見せるなんてね。軍隊猫にうってつけだ」
ジェイソンはできるかぎり背伸びして、兵士の目をのぞきこんで言った。「この猫はぼくのものだ」ペトロニウスのベルトの剣を見た瞬間、その声はかぼそくなったけれども。
「なかなか勇敢だね、ぼうや」ペトロニウスはジェイソンの肩をポンとたたきながら言った。「それに正々堂々としておる。ぼうやと猫、両方を連れていくことにしよう。さあ、おいで。子どもには何もないところだ、ローマは。猫にもいる場所がない。市民は猫を評価していないのだ。かれらは猫をアーティチョークの畑に置く。モグラを退治させるためにね。それくらいしか役に立たないと思っているのだ。だが軍隊はちがうぞ。軍隊がいる場所は空気が新鮮で、空はきれいだ。いつもあちこちで戦闘をしている。猫にとって暮らしがいがあるってもんだ」
「ローマ帝国の男の子はみな、その耳をユリウス・カエサル様に差し出すのだ」とアリウス。
「軍事パレードを見てみな」とペトロニウスはつづけた。「太陽のもとの銀のワシたち。連なる槍は森のよう。部隊のトップに君臨するのはシーザー様」。シーザー様という言葉を発するとき、その皮革のような顔はなごみ、称賛の表情があらわれていた。
「よくわからないけど……」ジェイソンは躊躇した。百人隊の隊長の言葉はジェイソンをワクワクさせたけれど、同時に、エジプトで起こったことを思い出させていた。
「疑いが生じたときは」とアリウスは言った。「前兆を見てみるのが軍隊の規則だ」
「そう、前兆だ」ペトロニウスはうなずいた。「部隊では聖なるハトにうかがいをたてる。まあ、ここでハトをつかまえるなんてことはしないけどな。それは専門家にまかせるとしよう。なにかほかのことを試してみようぜ。その盾を持ってきてくれ、アリウス」
アリウスは盾をもってきてペトロニウスにわたした。彼は外套をわきに脱ぎ捨て、ひざまずいた。
「おお、戦闘の神、マースよ。神々の父、力強き神ジュピターよ」と彼は祈り始めた。「連隊の卜占官を通じておっしゃってください。この少年と猫はわれわれに適しているでしょうか」。彼は盾を持ち、目の前の地面に置いた。「さあ、神のしるしをお見せください」
興味深げに隊長の様子をながめていたギャレスは、ジェイソンの腕からぴょんと跳んで、盾の真ん中に立った。アリウスは喝さいを上げ、ヘルメットを空中に投げ上げた。隊長は盾を上げて勝利を祝した。ギャレスは盾の上でバランスを取り、巻いたしっぽは軍旗のようだった。しっぽの先はヒゲに届いていたが、この姿勢が法外の喜びをあらわしていることをジェイソンはよく知っていた。
「それはいかなるしるしか」とペトロニウスは言った。「猫自身がその答えをしめしておるようだ」
「カエサルのワシに従えるとは、誇りにできるぞ」とアリウスは言った。「それは名誉であり、勇気であり……」
「アーティチョーク畑じゃないぞ!」ペトロニウスは叫んだ。「さあおいで、ぼうや。カエサル様は待ってくれない。老猫百人隊ははやいのだ」
ローマからガリアへの旅のあいだ、ジェイソンはどっちがひどいか考えていた。帆やこぎ手にギュウギュウに押されっぱなしの揺れる船か、かれらが降り立った森の中を抜ける寒い行進、さてどっちだろう。
ギャレスにとっては簡単なことだった。猫はしっぽを軍の槍のようにピンと伸ばしたまま、体をそり返らせ、きびきびと歩いた。首はアーチ状にしなり、決然として、これぞローマ人、とジェイソンは思った。「ぼくはふかふかとしたベッドが大好きなんです」とギャレスは言った。「まわりにそんなベッドがなくても平気ですだけどね。猫にとってはどんなベッドでもふかふかベッドですからね」
ジェイソンはすぐにキャンプ生活に慣れた。老猫百人隊がガリアの西海岸に着く頃までには、隊の兵士といっしょに足を上げて行進するまでになった。
巨大なキャンプ地で、老猫百人隊はカエサルのほかの部隊に合流した。カエサルはここから軍を率いて狭い海峡をわたり、ガリアよりいくぶん大きいブリタニカに上陸するだろう。
「だけどな」とペトロニウスは説明した。「カエサル様が号令を発するまで、やることがいっぱいあるんだ」
夜明けから夕暮れまで、ペトロニウスやほかあの隊長たちは部隊を方陣に配し、兵士たちに訓練を実施した。投げやり、ランニング、ジャンプ、地面に立てた柱に向かっての剣突きなどである。
軍隊の活動に参加するには若すぎたので、ジェイソンとそのかたわらのギャレスは、甲冑の胸当てをみがいたり、部隊のバッグを見張ったりしながら、平らな土の広場の端に座っていた。ペトロニウスの号令の叫びが冷たい空気のなかを響き渡った。ギャレスは興味津々といった様子で訓練を見ていた。
「このローマ人たちは自分がなにをすべきかよく知っているみたいです」と猫は言った。「見る価値がありますよ。練習あるのみです」さらに付け加えた。「それが違いを生み出すんですね。ほんとうにプロフェッショナルになりたいなら、そのことを懸命にやらないとダメなんです。いつも実践にはげまないとね」。ギャレスは起き上がり、筋肉を波立たせた。その様子を見て、仕事にかかる前に袖をまくる人に似ているとジェイソンは思った。「よく知らない人には」とギャレスはつづけた。「遊んでいるだけに映るかもしれません」。彼はしっぽを強調して振った。「でもぼくら猫はそうじゃない。猫であることは、とてもたいへんなことなんです。ちょっと見ていて」。ギャレスは前方に駆け出し、何かにとびかかり、両の前脚で草の葉っぱをつかんだ。
「そうやってギャレスがイヌハッカ・マウスのオモチャで遊んでいるところを見たのを思い出したよ」とジェイソンは声を上げた。
「本番にそなえて練習しているんです」ギャレスは間違いをただした。「なにかを捕えて地面に押し付けるのはとても簡単なことですからね。ほかのも見て」
三本の脚の上でバランスを取り、ギャレスは前脚の一本で弧を描いた。ジェイソンの目が追いつけないほど猫の動きははやかった。猫は土をすくいとると、いくつかの土くれを空中に投げあげた。「いまのは水の中でやることなんです」とガレスは説明した。「水の中でははやく動かなければならない。土をかき集めて、その土を投げ上げるんです」」
なんの警告も発せずギャレスは跳びあがり、頭の上まで前脚を伸ばした。ジャンプしたあと、くるくる回り、ジェイソンの目の前に落ち着いた。「これは空中でのことを考えてのことだ」と猫は言った。「三つの単純な問題点があるんだ。ハンター、追跡者、たたかう者としてね」
「猫でいることがそんなにたいへんだなんて知らなかった」とジェイソンは言った。
「練習、なにをおいても練習です」ギャレスは言った。「そのことは覚えておいてください」
ローマ人兵士たちは訓練を終えた。肩章を光らせ、顔を汗とほこりでよごしながら、ペトロニウスは土の広場の端までやってきた。彼はあいさつのつもりなのか、剣をかかげて振った。
「おや、そこにいたのか」と彼は大きな声で言った。「何をしてるんだい? 猫と遊んでいるようだな」
ジェイソンはうなずいたが、心の中では笑っていた。
その夜、ほとんど眠りに落ちかけていたとき、ジェイソンはペトロニウスに揺り動かされて起こされた。隊長の顔は緊張し、額のキズはたいまつによって輝き、痛々しいほど白く、できたてのように見えた。
「いま、行かなければならなくなった」押し殺した声で彼は言った。「さあ、これを着て」ジェイソンの肩に上着をかぶせた。ほんの一瞬、兵士は少年を引き寄せた。そしてペトロニウスは突然部隊に向かってぶっきらぼうに、勇猛そうに叫んだ。
ジェイソンは上着の一部でガレスを覆った。こうすれば運んでいる投石器に見えるだろう。
ジェイソンに恐怖におののく時間はなかった。あっという間に老猫百人隊はそれぞれ盾と剣を持ち、軽量の投げやりを握り直し、ランクに応じた方陣を形成した。ペトロニウスは号令を発し、ほかの部隊とともに岸辺の船団に向かって行進した。
ジェイソンがはじめてブリタニカの白亜の崖を確認したとき――人影がちらちらと見えた――朝はまだ早く、日は見えず、寒かった。近づくと、かれらはみな槍をもっていた。ジェイソンがひんやりとした寒さを感じたのはそのときだった。ガレスの毛も彼の脇でぬくもりを感じさせなかった。老猫百人隊の隊員たちは、黙りこくったまま、揺れる小舟のなかでしゃがみこんだ。ペトロニウスはひとりぶんのスペースをとり、そこにジェイソンを坐らせて上着でつつみこんだ。彼は少年にウインクすると、ギャレスのあごをやさしくなでた。
「恐れることは何もない」とペトロニウスは言った。「恐れを知る前に戦いは終わっているだろう。そして老猫百人隊がどのように勝利を祝うか知ることになるだろう」
そのとき舟は小石の多い浜辺にこすって乗り上げた。するとジェイソンを取り囲んでいた兵士たちは、舟の側面をジャンプして越え、水しぶきをあげて陸地の高いほうへと走っていった。ブリトン人たちは野蛮な叫び声を発しながら、群れをなしてうじゃうじゃと崖のほうから降りてきた。ジェイソンはよろめきながら岩場を歩き、ガレスをかかえたまま、ペトロニウスやほかの老猫百人隊に遅れまいとなんとかついていった。
空中を矢が歌いながら飛んでいった。兵士たちは槍を投げた。おたけびを上げ、叫び声を発しながら、ブリトン人たちが浜辺に押し寄せてきた。そしてジェイソンがいままでに見たことのない何かがあらわれた。小さくてガタガタしたチャリオット(二輪馬車)が群衆の中から飛び出してきたのである。御者たちは毛むくじゃらのポニーを手綱であやつっていた。兵士たちはそこから飛び降りてきて、果敢に攻め立て、競うようにすぐに引き返した。御者たちが鞭をふるうと、ポニーはギャロップで走り出した。よく訓練されたローマ軍団兵でさえ自分たちの陣地を死守するのはむつかしかった。ブリトン人たちが叫び声をあげると、それが楔(くさび)のように、ジェイソンと老猫百人隊のあいだに打ち込まれ、ジェイソンは引き離されてしまった。
上着の下にガレスをかかえたまま、ジェイソンは猛烈にダッシュして浜辺に駆け下り、百人隊の周囲をまわってなんとかかれらのなかにもぐりこむことができた。しかしブリトン人たちはそのあたりまで押し寄せてきて、しだいに棘(とげ)の多い林が目前にせまってきた。
ブリトンのチャリオットの御者がジェイソンを見つけ、ポニーにムチ打って追ってきた。ジェイソンはよたよたしながら土手をあがり、森の中に逃げ込むと、しゃにむに走り、奥へ、奥へと入っていった。枝が彼の顔に平手打ちを浴びせ、根が彼を引っかけた。彼は湿った落ち葉のなかに突っ込んだ。
「道がわからなくなったみたい」ジェイソンはため息をついた。「仲間の部隊のところに二度と戻れないかも」
ギャレスは木の低い枝にぴょんととびのった。「ぼくなら道を探し出すことができるよ」と彼は言った。何もいわず、じっとして、頭をすこしだけかしいでいた。「いまじゃないけど。みんなまだ浜辺で戦っているからね」と彼はつづけた。「日が暮れるまでここで待っているほうがよさそうだ」
息を大きく吸い込んで、ジェイソンは岩の上で大の字になった。「ペトロニウスが何と言おうとかまやしない。アーティチョーク係だったらどんなに平和だろうかと思うよ。軍のマスコットでいるかぎり……」彼は息をのんだ。ギャレスが毛を逆立てはじめたのだ。猫の目のはしに、木の下にうずくまる別の動物の姿が見えた。
それはギャレスとそっくりだったが、すこし大きく、毛が長く、毛むくじゃらだった。その目は丸く、黄色く輝いていた。体は灰色で、ストライプ柄がはいっていた。耳の端からは、ふさふさした毛が伸びていた。動物は長くヒューっという音をたてていたが、それはうなり声にかわった。歯をむきだしたものの、動物は咳払いをすると、跳んで去っていった。
ギャレスは空中でその動物にとびかかった。二匹は地面の上でくんずほぐれつになって戦った。かれらは回転する、うなり声をあげるボールのようだった。どちらかが叫び声をあげたが、どちらかはジェイソンにはわからなかった。相手と組み合ったまま、ギャレスはやぶの中に転がっていった。ジェイソンはその地点まで駆け寄ったが、二匹は森の中で格闘していた。落ち葉が切り裂かれる音がジェイソンにも聞こえた。
「ギャレス!」ジェイソンは叫んだ。
彼はやぶの中に強引に入っていった。そして一本の木に背中をもたせかけた。目の前に動物の皮をまとったヒゲの男が立っていた。男は長くて醜い槍をジェイソンののどに押しつけてきた。
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