時をかける猫とぼく  ロイド・アレグザンダー 

 

411年のアイルランド 

6 ダイアハン 

 

 かれらはブリテン島から遠くはなれた場所にいた。ここアイルランドの岩場に少女が立っていた。肩にかかった金赤色の髪は腰の黄金のベルトにまで達していた。彼女の後ろには鉄の黒色と海の緑色がまじった丘がそびえていた。ジェイソンとおなじ年ごろの彼女は背が高く、やせっぽちで、小さな足はサンダルをはいていた。少女はまったく驚いたふうではなかった。ジェイソンとガレスに気づくと、彼女は青い瞳を輝かせながら、かろやかに駆け寄り、まるでやめることを知らないかのように話しはじめた。

「わたしの名はダイアハン」話すというより歌うような調子で少女はすこし息を止めて言った。「あなたたちは何者?」。ジェイソンがこたえる前に彼女は先をつづけた。「父はミリユック王。あなたのお父さんは王様かしら? あなたの父上は剛腕王モグでしょ? それならお父さんにすべての牛を返してって言って。とくに赤い牛。このメス牛、わたし大好きなの。もしそうしてくれないなら、いっしょに行ってみんな連れてきましょう。あなたの牛も全部ね」

 息もつかぬ間に少女はからだをまげて、ギャレスに顔を近づけて言った。「でもモグ王がこんな犬をもっているって聞いたことないわ。とうていオオカミに太刀打ちできそうにもないものね」

「彼はオオカミを恐れることはありません。でも犬ではありません」ジェイソンは彼女をさえぎってなんとか言うことができた。「彼は猫です」

「猫ですって?」とダイアハン。「どういうこと? あ、そうね。もちろん猫だわ」

「それならどうして犬と呼んだのですか」ジェイソンはたずねた。

「猫って言ったつもりなのよ」ダイアハンは言った。「対(つい)のことばが出てきちゃったの。わたしが犬を見てもわからないとでも言うの?」

「あなたは犬のことをごぞんじだと思います」とジェイソン。「でも猫のことにはあまり確信をもっていないように見受けられます」

「そんな言い方をするなんて、不届き者ですわ」ダイアハンはくちびるをすぼめた。しかし彼女はすぐにしゃべらずにはいられなかった。「あなたはどうやらモグ王の王子ではないようね。それにこの動物も猫ではないわ」

「ぼくはモグ王の王子ではありません」とジェイソン。「そんなこと言っていません。でもこの動物は猫です。あなたがなんと言おうと」

 ダイアハンは怒って足を踏み鳴らした。「わたしはあんたがばかなガキだって言ったのよ。猫がそれより大きいってことはだれだって知ってるわ。エリン(アイルランドの旧名)でもっとも偉大な詩人ショーンチャンを運んできたのは牛のように大きな猫だったのよ。そう教えてくれたのはダブタックだったわ。彼が言うことはいつも正しいんだから」

 ジェイソンは岩にすわって笑いころげた。「ぼくはモグ王もミリユック王もショーンチャンもダブタックも知らないけど、牛みたいに大きな猫が世界のどこにもいないことは知ってるよ」

「そんなに大きくなかったら、どうやってショーンチャンを運んだの? ダブタックも詩人だった。だからほかの詩人になにが起きたか知ってたはずよ」

 ジェイソンは首を振った。「猫は人をのせたりしない。猫はそれだけは絶対しない」

 ダイアハンは両手をお尻に当て、ジェイソンを鋭い目で見た。「もしあなたが賢いぼうやなら、かれらにできることすべてを申しなさい」

「かれらは木に登れるし、暗闇でもよく見えるんだ」とジェイソンは言った。「のどをゴロゴロ鳴らせるし、ネズミを捕まえることができるし……」 

「ネズミを捕まえるですって?」ダイアハンは言った。「わたしたちのほうがうまくできるわ。だってルガドがいるんですもの」

「何ですか、そのルガドって」

 ダイアハンはくすくす笑った。「ルガドは何って。ルガドはだれ、でしょ。ルガドは父の宮殿にいる魔術師。呪いをかけるのよ、必要なときには。そうすればネズミも、あと気味悪いもの、ゾクゾクさせるものすべてを追っ払えるの。そう魔術師は言ってるわ。あなたの猫も魔術使えるの?」

「ある意味……」ジェイソンが口を開けると、ダイアハンが目を輝かせた。

「もちろんよね! 牛みたいに大きくなりたいって願うのよね。ダブタックはまちがってないわ。さあ、こっちに来て」

 彼女はジェイソンの手をとって岩から飛び跳ねた。

「あなたの魔法の猫、お父さんに見せるわ」と彼女は言った。「それにルガドにもね」

 ダイアハンはスキップして谷間を降りていった。彼女が導いてくれなかったら、ジェイソンはミリユックの国の中央を歩いてとおっていたのはまちがいなかった。彼は土と編み枝でかためた小屋群とやせたブタが数匹居眠りをしている囲いを見ただけだった。小さな牛の群れが杖をもった若い黒髪の男に駆り立てられながらゆっくりと歩いていた。

「スキャット! スキャット!」牛の群れを見つけたダイアハンはそう叫んだ。「ここに少年が猫と呼んでいる生きものがいるよ。これってほんとうって感じ。あなたも知っておくべきよ」

 ギャレスを目にした牛飼いはひざをつき、両手を前方に広げた。目を丸くして驚いているジェイソンの前でガレスは歩み出て、牛飼いのひざの上にとびのった。牛飼いは頬をギャレスの肩のあたりにすり寄せた。「お姫さま、まことにこれは猫でございます。六年間も会っていませんでしたが、忘れることはございません。それにしても」彼はほほえみを浮かべてたずねた。「なんとまちがわれたのですか? 父上のウルフハウンドとおまちがいになったのですか」

「わたしが笑われたのは今日だけで二度目だわ」ダイアハンは口をすぼめた。「猫が大きいって勘違いしたとしても、それはわたしのせいではないわ。それにこの猫は魔法の猫なの。魔法を使って牛みたいに大きくなることもできるのよ」

 牛飼いはため息をつき、少女に向かってやさしく指を振った。「お姫さま、何回お話しましたでしょうか。魔法の動物などいないのです。ごらんになっているように、神の創造物しかいないのです。魔法なんていうものはないのです」

 ダイアハンは落ち着かない様子でサンダルの先で地面をつついた。「言っていることはわかるわ。でもルガドが言うには……」

 男は顔をさっとあげ、目を光らせた。「ルガドはどうしようもない愚か者ですぞ」

 ダイアハンは手で口元をポンとたたいた。「そんなこと、言うのもはばかるわ」彼女はクスクス笑った。「でもそう見えるわね。そんなふうに呼ばれているって知らないことを祈るわ」

「ルガドは恐くありません」スキャットはニコリと笑った。「私の名について彼に考えさせてください。ブリテンでは、私はパトリックと呼ばれます。でも私のほんとうの名はスキャットです。よい猫という意味なのです。それはよい戦士という意味でもあるのです。私の郷里では、つまりウェールズでは」と付け加えた。「戦士のことをキャット(猫)と呼ぶのです」

「え、ウェールズから来たの?」ジェイソンはたずねた。「すごく遠いところから来たんだ……」

「遠くて、しかも海を隔てている」スキャットは言った。彼はジェイソンを上から下までつらつらと眺めて、言った。「あんたも異邦人のようだな。何かがそう感じさせる」

「ぼくたちも遠くから来ました」とジェイソンは言った。

「それなら話すことはたくさんあるな、ふたりの異邦人のあいだで」とスキャットは言った。「そしてこの美しい猫が私のひざの上にいる楽しみを保証していただきたいですな。ダイアハン王女がおっしゃるには、あなたがたはここではなんの心配もなくすごせるとのこと。ここは猫の土地ではないですが」彼は苦々しげな笑みを浮かべて言った。「ほかのたくさんのものの土地なのです」

 ジェイソンは広い額の黒髪の男、スキャットを見て、この男は牛飼いをしながら遊んでいるだけなのではないかと感じた。彼は大きすぎず、かといって筋肉がつきすぎているわけでもなかった。しかし彼がルガドについて話しているとき、その目には炎がもえさかっていた。彼の顔、あるいは頭の形に、ある種のパワーが宿っているようだった。ガレスがその脚を水のようにしなやかに伸ばして寝ているときに見せるのと、おなじようなものだった。ガレスがやせた体のバネをしっかり巻いて備え、一瞬で跳ね上がるのをジェイソンは知っていた。スキャットもおなじようなことができるにちがいないと、ジェイソンは思った。

 ジェイソンがダイアハンと会ったときからは考えられないくらい、彼女はしばらくだまりこくっていた。ようやく彼女が口をはさんだ。

「もうおしゃべりはたくさん! あんたたち、しゃべるだけしゃべって、わたしにはひとこともしゃべらせてくれないのね! 魔法の猫を最初にみつけたのはこのわたしだからね!」

 ダイアハンはジェイソンの手を取り、引っ張っていこうとした。

「真実を知りたいんでしょ」と彼女は言った。「ルガドはイカレ頭の男よ。父はこの男のこと、全然好きじゃないのよ。たしかに大きなことにたいしては、とても賢いわ。彼が命じると太陽が出てくるんですからね。すべてこんな調子。でも小さなことは得意じゃないのよ。だから村はいまだにネズミとヘビだらけ。

 もちろんルガドはうまいこと言ってるわ。これらはネズミやヘビの精霊なんですって。ほんものはとっくの昔に駆除したと言ってるの。よくわかんないけど」

 ダイアハンは首を振った。「貯蔵した穀物の半分を食い荒らされなかった年なんてなかったわ。これが精霊のしわざだなんて! 精霊といっても食欲旺盛なの。ほんものに負けないくらいにね!」

 門が青銅で飾られた、垂木を組んだ屋根の高い建物のなかで、ダイアハンはジェイソンを父親の国王に紹介した。国王は、腕に黄金の装飾をつけ、むきだしの肩に七色の王室のマントをかけた、樽のように丸々と太った赤ひげの戦士だった。ハープをもった、やせた、いぶかしげな男こそは詩人のダブタックにちがいないとジェイソンは推測した。完全にはげていて、酸っぱいブルーベリーみたいな目をした、ひどくヨタヨタと歩く男は、ミスを犯さないルガドだった。

 ダイアハンがミリユック王にジェイソンと猫が魔術師だと紹介すると、王はテーブルをぴしゃりと叩いた。「これぞわれが必要としていたもの!」王は叫んだ。「どこか遠くからやってきた新しい魔術! わしは思ってたんだよ、ルガド。おまえの魔術もそろそろ効かなくなったんじゃないかとな」

 宮廷魔術師は指をひねくりまわし、なにかぶつぶつと言った。ジェイソンにはそれが呪文かどうかわからなかったが、侮蔑的に聞こえた。

 ジェイソンとガレスはミリユック王に歓待された。それは旅人、とくにふたりの放浪する魔術師にたいしてなされる慣例的なものだった。王宮のジェイソンの部屋には大きなベッドがあり、そこにはやわらかい羽毛のクッションが置いてあった。しかしその夜、ジェイソンは落ち着かなかった。ダイアハンの呪文の話、とくに牛のように大きな猫の話が彼の頭の中を駆け巡った。ダイアハンの金赤色の髪の毛のことも気になってしようがなかった。

 眠れないジェイソンとギャレスはそろりと部屋を抜け出し、銀色の月光のなか、村のはずれまでぶらりと歩いた。ねじ曲がっている木々の影は古代の魔術師が踊っているかのようだった。

「かれらはいったいだれなんだ?」ジェイソンはたずねた。「長い歯チェルディッチとドルイド僧を思い出したよ。ものごとをどうすればよくなるかかれらは知らなかったけど。チェルディッチはミリユック王の腕輪をそれほど好きではなかったみたい」

「ある意味、正しいですね」ガレスは言った。「アイルランド人には、かれらなりのドルイド僧がいます。ここに何千年もいるのですからね。ギリシア北部に野生の戦士民族がいます。かれらはケルト人と呼ばれる大きな勢力を持った人々の一部なのです。かれらは移動してしばらくはエジプト人のもとに滞在しました。それからスペインに行きました。そして最後にこの島にたどりついたのです。ほかの人々もここにいたのですが、ケルト人はかれらを追い出したのです。かれらはいまだに精霊が丘の下に棲んでいると信じています。この人々のことをかれらは小さい人々と呼んでいます」

「猫はいたの?」

「いえ」とガレスはこたえた。「戦士たちはずっと昔、エジプトで猫のことを知りました。でもかれら自身は猫を所有することがありませんでした。ほんものの猫がどのようなものであるか忘れてしまったため、妖精物語を作る必要があったのです。そうやって記憶したのです」

「でも記憶ちがいなんだね」ジェイソンは笑った。

 月光の池の何かがギャレスは気になったようだ。何も言わずに猫そちらのほうへ向かった。コオロギか甲虫なのだろうが、ジェイソンはなにも言わなかった。猫はひとりでトレーニングをはじめたのかもしれない。しかし青ざめた銀の光線のなか、猫は高くジャンプした。夜のしずくが猫のまわりできらめいた。曲がりくねった木々のはしで、野生のミステリアスな生き物のように踊るギャレスとともに、ジェイソンは草地から出現するエリンの小さな人々を見ることができそうだった。ギャレスの引き締まった体が回転し、その目の中で月の光が白くちらちらと明滅した。ジェイソンはある種の驚きのよろこびを感じて震えおののいた。

 ゲームを終えた、あるいは狩猟の訓練を終了した猫はジェイソンのもとに静かにもどってきた。どちらも黙ったままだった。黄金の蜘蛛の巣のように、エリンの地の呪文はかれらにかかったままだった。黙ったままかれらはミリユック王の宮殿にゆっくりと歩いてもどった。ジェイソンは後ろを振り返った。彼らを追ってくる小さい人々の一団を見ることができるのではないかと期待しながら。

 叫び声が呪いを打ち破った。それはダイアハンの声だった。ジェイソンは急いでだれもいない大広間を抜け、寝室に駆けつけた。ギャレスは彼のすぐ前をはねるように走っていた。低いベッドの上で、背筋を伸ばして坐っているダイアハンの目には恐怖の色が浮かんでいた。

 冷たい月光が氷の板のように張った床の中央にはヘビがうずくまり、いまにも彼女に襲いかかろうと身構えていた。


⇒ つぎ