時をかける猫とぼく ロイド・アレグザンダー
7 スキャット
ジェイソンはその場にこおりついて動けなくなった。部屋の中で唯一動いているのはガレスだけで、黒い矢のようにビュンと跳び出した。ヘビが攻撃を仕掛ける前にギャレスはその平たい頭を後ろからとらえていた。ヘビのしっぽが激しくあばれ、猫の体に巻きつこうとした。ふたりの闘士は何度も床の上でくんずほぐれつの戦いを繰り広げた。ギャレスはヘビに乗っかり、後ろ足で猛烈に蹴りたてた。
ヘビは身を起こし、猫を床にたたきつけた。ギャレスは歯とツメの攻撃で対抗した。ヘビは部屋中をのたうち回った。猫の頭がしっぽに触れるほどのけぞったとき、ジェイソンは思わず息をのんだ。一瞬ヘビの体は自由を得たかのようだったが、ギャレスは依然としてその首根っこを口にくわえていた。
突然、すべては終わった。ヘビの体から生気が消え、一本のロープのようになったのだ。そのときでさえ猫はあごの力をゆるめなかった。猫は目を輝かせながら、うずくまり、うめき、うなり声をあげた。ギャレスはふたたび森の野生動物にもどったかのようだった。ツメと鋭い歯を持つ獣は敵と生死をかけた戦いに勝ったのである。
部屋の中はたいまつでいっぱいだった。赤い髪をなびかせ、こぶしに剣を持って入り口に立っていたのはミリユック王だった。王の後ろに集まっていたのは宮殿の警護兵たちだった。ダイアハンは戦いのあいだ、怖くてすすり泣くことさえできず、片が付くと、わっと泣き出した。
ミリユック王がすすり泣いているダイアハンをなぐさめているあいだに、ジェイソンはガレスのもとに駆け寄った。猫は肩からしっぽにかけて順繰りにブルブルとふるわせ、それからジェイソンに向かって目をぱちくりさせた。
ギャレスはさも軽蔑するかのようにヘビの頭をくわえてほうりなげた。それからとても静かにじぶんの体をきれいにしはじめた。
いままで以上におかゆのように見える、寝起きではれぼったい顔のルガドが寝室にころがるようにはいってきた。「いったいどうしたんだ」と彼はたずねた。「悪夢か? すべて終わったのか? 少女が月光の下で寝ているとは」
「悪夢だと!」ミリユック王は吠えた。王はピクピクしているヘビをつまんでルガドの前につき出した。「おまえが悪夢だ! これをおまえは月光と呼ぶのか」
ルガドはいやそうにヘビを見た。「悪の精霊だ」と彼は言った。「以前も目にしたことがある悪霊だ」
ミリユック王はじぶんの赤毛よりも赤くなった。「なんてやつだ! これをおまえの首に巻いて引っ張っても、おまえはこれを精霊と呼ぶのか!」
「これはヘビの亡霊であります」と、ルガドはミリユック王に向けた鼻を見下ろしながら、同時に少し動かしながら、すねた調子で言った。王が脅しをかけてくるおそれがあったからである。「何度国王に申し上げたことでしょうか。本体はすでにわたくしが駆逐いたしたのであります」
「それならば」ミリユック王は叫んだ。「はげ頭のおまえはこう言いたいんだな。わが娘は亡霊にかまれてあやうく命を失うところだったと」
ルガドは肩をすくめた。「それが亡霊とうまくやる方法なのです。でももうかまわなくても大丈夫です。寝室に魔法をかけておきましたから。娘さんは、今夜は安心してお休みいただいてけっこうです」
「おまえの魔法なんて風にかけてしまえ」ミリユック王は叫んだ。「それがいちばん役に立つやりかただ。なぜかって? おまえの樽のような体のパワーより、この小さな黒猫のヒゲに宿るパワーのほうがはるかに大きいからだ」
「用心せよ!」ルガドは手を高くかかげた。「魔術師をあざける者には死あり」
「まさにそうだな」ミリユック王は不機嫌そうな笑みを浮かべた。「だがおまえがわしの考えるとおりの魔術師なら、恐れるに足らず、だ」
ルガドは鼻を鳴らすと、きびすを返し、人をかき分けて寝室から出ていった。
ミリユック王はジェイソンとガレスのほうを向いた。「あなたがたふたりはわしの右側にすわるといい。エリンでもっともすぐれた鍛冶師があなたがたのために玉座をつくってくれるだろう。ダブタックのハープによってルガドより偉大な魔術師の歌がつむぎだされるだろう」
翌日、ミリユック王はほんとうにジェイソンとガレスを銀の玉座に坐らせた。ダブタックは礼賛の歌をうたった。ダイアハンはジェイソンをうっとりと見つめた。いっぽうでルガドは追いやられて、隙間風が吹き、煙でいっぱいのテーブルのはしに坐らされた。彼は自分自身に怒りをぶつけ、ブツブツとつぶやいていた。
これで終わりではなかった。赤ヒゲ王はジェイソンとガレスに宮廷にとどまり、宮廷専属魔術師になるよう懇願したのである。
「でもそれはできません……」とジェイソンは言った。「王様、あなたは理解されないかもしれませんが……」
「なんてこった!」ミリユック王は叫んだ。「理解したとも、この目で見た魔法を! それにもう決まったことなのだ」王は顔をそむけ、これ以上ジェイソンの抗議を聞こうとはしなかった。
食事のあと大広間を出ようというとき、ダイアハンがやってきてジェイソンといっしょに歩いた。「父が言ったことを聞いたわ」興奮した面持ちで彼女はささやいた。「とてもすてきなことじゃない? あなたってルガドより格段にすぐれた魔術師だわ。彼の魔法はとても弱くてひどいものなのよ」
「王女さま、あなたもよくわかってらっしゃらないようだ」失望を隠せずジェイソンは言った。「ぼくは魔術師じゃないですよ。ギャレスだってちがう」
「ギャレスは魔術師だって言ってなかった?」
「そう、たしかに言いました、でも異なる意味なんです。うまく説明できないけれど」
「もちろん、もちろんそうよね」ダイアハンはよく知っているかのようにうなずいた。「じぶんの技量を誇るなんて、賢い魔術師がすることじゃないわ。小さい人々がそれを聞いて嫉妬するかもしれないし」
「小さい人々じゃなくて……」
「しいっ!」彼女はジェイソンのくちびるに指をあてた。「その名を口にしちゃだめ。疫病がもたらされるかもしれないわ」
「それについては心配していません」とジェイソンは言った。「あなたのお父さんが言ったことを心配しているのです。こちらが何か言っても耳を傾けてくださらないのです」
「もしあなたが受け入れないなら」ダイアハンは警告した。「お父さまは激しく怒ると思うわ。それにわたしだって、怒るかも」彼女は眼を輝かせてジェイソンを見た。「もしあのバカなルガドのかわりに宮廷専属魔術師にならないなら、もうあなたと話なんかしないから!」
ジェイソンは宮廷のなかでダイアハンのもとからはなれた。ミリユック王に何と言おうかと考えながら、ジェイソンはスキャットを探しに牛の囲いのほうへ向かった。
ウェールズ人は囲いの柵の上にすわっていた。彼はジェイソンに向かって手を振り、かがんでギャレスを持ち上げるとひざの上に置いた。ジェイソンがいましがた起きた問題について語ると、スキャットは熱心に耳を傾けた。
「あなたは正しい」とスキャットは言った。「あなたとあなたの猫が魔術師ごっこをはじめたので問題が起きたのかもしれません。すべてルガドにまかせればいいのです」
「でも彼の呪術は役に立たないとおっしゃっていませんでしたか」ジェイソンはたずねた。
「たしかにね」とスキャットは同意した。「でも彼の知識はそうではない。こういった魔術師について理解しなければなりません。かれらはほんとうにたいへんな量の知識をもっているのです。かれらは星のことをよく知っています。季節を読み解くのが得意です。耕したり、種や苗を植えたりすることに詳しいです。森や動物のことも熟知しています。人の目を見るだけでその人を眠らせることだってできるのです。自然のかわりに魔術を用いることができるとふるまっただけで、災いをもたらすことができるのです」
「ルガドはけっしてバカなおとこではありません」とスキャットはつづけた。「彼はじぶんがやっている魔術を信じてもらいたいだけなのです。そのころ人々は彼のことをこわがっていました。それは彼が仕事をつづけるための方法であり、われわれはそのことで彼を攻め立てることはできません。でも恥ずべきことです。もしブリテン島生きてきたなら、すばらしい知識のある人間になったことでしょう。私の国にはキリスト教の信仰があります。私のように教会から教育を受けることもできたはずです。しかしエリンにはそういったものはありませんでした。あるのは魔術と迷信と草の葉の下の小さい人々だけなのです。あまりにも」スキャットはため息をついた。「ブリテン島から遠いのです」
「ブリテン島が文明化されているなら」ジェイソンはたずねた。「なぜあなたはここに来たのですか」
「来た……」スキャットは悲しそうに笑った。「私はここに来たわけじゃないんですよ、坊や。連れてこられたんです。九人の捕虜の夜王ニーアルが海岸を襲撃したときのことを忘れることはできません。
家には三人いました。ふたりの姉妹と私です。三人とも奴隷として売られました。ああ、当時私は戦士でしたが、向こうにはたくさんの兵士がいました。多勢に無勢です。かれらは私たちをしばりあげ、船まで連れていきました。船はそのまま出航したのです」
「ふたりの姉妹はエリンのどこかにいます」スキャットはつづけた。「姉妹が生きていることを願っています。ミリユック王は私をここに連れてきて牛の世話をさせています。それは六年前のことでした」
「どうして逃げないんですか」ジェイソンはたずねた。「あなたを拘束しているように見えないんですが」
「時が来たら」スキャットは言いました。「ここから出ていくでしょう。でもこの考えは私の心のなかにあります。その下には目的があります。理由があって私はここにいるにちがいありません。現在は私から隠されているのです。それを理解したとき、私は出ていくでしょう。あるいは滞在しつづけるでしょう」
そのあと牛飼いは黙りこくった。彼の表情はすっかり夢のなかにはいり、その深くくぼんだ目はジェイソンを通り越してはるか向こうの山々に向けられていた。
ようやくジェイソンは口を開いた。「ミリユック王が提案したことについてどうすべきかいまだによくわからないのですが」
「王?」とスキャット。「ああ、そのことなら、ほうっておけばいいんですよ。ミリユック王はすぐに気が変わるんです。じぶんが言ったことを半分しか覚えていません。すぐにヘビのことでルガドにたいして腹を立てます。でも王はいつも最後に話しかけてきた人の意見に賛成するのです。ルガドは賢い人間です。王のまわりで何か細工をすることでしょう。私のアドバイスは、そこから少し離れろ、とうことです。じきに王はすべてのことを忘れるでしょうから」
スキャットが正しかったことをジェイソンは理解した。大広間での次の食事で、ルガドはテーブルの定位置にすわった。魔術師と国王はほかのだれにも注意を払わず、さまざまなことについて熱心に会話をかわした。ダイアハンはといえば、ジェイソンがせっかくの機会をつかもうとしないことにいや気を感じているようで、ジェイソンに話しかけようとしなかった。ときどき彼女が話しかけていないことをあえて意識させようとしてはいたのだが。
ルガドは真夏の火祭りの準備に余念がなかった。男たちに命じて藁と木材を山の頂上に運ばせていた。火が村人によき収穫を保証してくれると考えられていることをジェイソンは学んだ。数多くの呪文が火にたいして投げかけられた。ルガドはとても大きなものを作っていた。ジェイソンとギャレスは完全に忘れ去られていた。
「私の言ったことがよくわかったでしょう」ジェイソンがふたたび訪ねたとき、スキャットは言った。「よい収穫のために魔法の火なんて必要ありません。農民がきちんと種を植えて、天候が順調であれば、収穫はもたらされるのです。そうでなくとも」スキャットは肩をすくめた。「地上の火は何の役にも立たないでしょう。穀物を食い荒らすネズミにより注意を向ければ」と彼はつづけた。「よりたくさんの穀物を得ることができるのです」
「ギャレスならネズミ退治の手伝いをすることができます」とジェイソンは言った。「どこでもそれをやってきたし、ネズミ退治は得意なんです」
「でも一匹は一匹です」スキャットは言った。「何百匹の猫がいても十分ではありません。エリンのすべての村がおなじ問題をかかえています。そして事態はわるくなる一方です。かつてないほどの飢饉がやってくるでしょう。そのときルガドや火は何の役に立つでしょうか」
ジェイソンはそのとおりだと思った。その夜、いままで見たことがないほどの輝きをはなつ火を見ることになった。山の頂上付近全体が燃えていたのだ。ジェイソンとスキャット、ガレスは牛の囲いの柵の上にすわり、オレンジ色のぼろ布が漆黒の夜を焦がしていくさまを眺めた。まもなくして近隣の村々の火がほかの山の頂にあらわれた。
火がともされたばかりの頃、ダイアハンが牛の囲いに向かって走ってくるのが見えた。顔にはイバラの擦り傷ができ、白い衣は裂けていた。スキャットは柵から跳び下り、ダイアハンに会おうと急いで向かった。
「王女さま」スキャットは呼びかけた。「丘の上でお父さまといっしょだとばかり思っていましたが」
「いっしょだったわ」ダイアハンは息をのんだ。「でも逃げなければならなかった。だってとてもひどいことをしようとしていたんだもの。ルガドの考えたことなんだけど……」彼女はすすり泣きはじめた。
スキャットは彼女の肩をだいた。「落ち着いて、お嬢さま。ルガドのことで何かおっしゃろうとしているのですね」
「ルガドはお父さまに話しかけていました」とダイアハンは言った。「前とおなじようにすべてのヘビとネズミは亡霊だというのです。それでこれらを追い払うにはほかの亡霊を送り込まねばというのです」
「ルガドがそんなふうに考えているとは知らなかったな」スキャットは怒った口調で言った。
「ふたつの亡霊を送るというんです」ダイアハンのくちびるは震えていた。「その亡霊というのが、少年と猫だというんです」
「少年と猫がだれのことか、推測するまでもないな」スキャットは険しい顔で言った。
ダイアハンはジェイソンのほうを向いた。「行って。待つ必要はないわ。ルガドは男たちを連れて降りてくるわ。かれらはあなたたちを葉っぱにくるんで火の中に投げ込むつもりよ」
「スキャット」ダイアハンは急いで付け足した。「ふたりに森の中の道を教えてあげて。すぐに! あなたも戻ってくる必要はないわ。ふたりを助けたことが知れたら、あなたも殺されるでしょうから」
「しかし王女さま、あなたはどうされますか」牛飼いはたずねた。
「わたしはお父さまの娘よ」ダイアハンは誇らしげに言った。「ルガドはわたしを傷つけることはできないはずよ。だから急いで! 手遅れにならないうちに」
ダイアハンはジェイソンの腕をとった。「さようなら、あなた。こちらの犬だか猫にも、さようなら」王女は急いでジェイソンの頬にキスをした。彼女が視線を下げたとき、涙がとめどなく流れ落ちた。「あなたに話しかけなかったのは、本意ではなかったの」ダイアハンはささやいた。「あなたが行ってしまうなんて、悲しくてたまらないわ」
夕暮れまでにジェイソンとガレス、スキャットは森の中にはいり、ルガドがとうてい追って来られない地点まで達した。かれらは夜のあいだじゅう、黙ったまま歩いた。スキャットは彼自身の考えに没頭していた。ジェイソンは、じぶんにとっても驚きだったが、黄金の髪のダイアハンが恋しくてしかたなかった。
スキャットが最初に口を開いた。
「とても奇妙なことだが」と彼は言った。「私はこの国がとても好きになったようです。奴隷の身ですけどね。おそらくそれが、私が捕らわれの身となった理由でしょう。私はエリン、そしてその人々について知り、愛することを学ばなければならないようです。私はいま、すべきことが何であるかわかりました」
「世界に入っていくことになるでしょう」スキャットはつづけた。「おそらくはるか遠くのローマにも。私は学び、学んだものを持って帰るでしょう。そのときには、魔術師は必要ないでしょう」
「ヘビはどうするんですか? ネズミは?」ジェイソンはたずねた。
「戦争と無知のヘビどもは、土の上を這うヘビよりも悪しき存在です」とスキャットは言った。「これらのヘビを私は駆逐しなければなりません。そしてネズミに」関していえば……」彼は笑みをうかべ、手を差し出してガレスを撫でた。「この小さな生き物を連れてくるとしよう」
森が開けたところで旅人たちはとまった。スキャットは火打石で火をつくり、枝葉を集めて燃やした。「しばらく休もう」と彼は言った。「先は長いですからね」
ウェールズ人は火の横でからだを伸ばし、すぐに眠りに落ちた。ジェイソンとガレスは眠らず、木々のはしまでぶらぶらと歩いた。
「何かおかしいな」とジェイソンは言った。「スキャットの話し方。だれかの話し方と似ている気がする。聖……」
「だれかだって?」ガレスは言った。「スキャットに似た人物はひとりしかいません。スキャットは別名をもっていると言ってましたよ、パトリックという」
火は燃え尽きようとしていた。燃えさしから最後の火が消え、ひとすじの煙が立ちのぼった先には朝の光がさしていた。
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