時をかける猫とぼく  ロイド・アリグザンダー 

 

1468年のイタリア 

10 オドラノエル 

 一行天皇の玉座の間は山の中腹になった。ジェイソンはギャレスを見た。その耳はお椀の形となり、ヒゲは小刻みに震え、聞き耳を立てながら、洞窟の入り口に向かって身がまえた。ジェイソン自身にはわずかなそよ風の音しか聞こえなかった。そよ風は岩のあいまをリボンのように流れた。午後おそく、金色と青色のまじった空のもと、山は下方に傾斜していくつかの小さな丘となり、谷間に向かって転がった。白い村と銀緑色のオリーブの果樹園のはるか向こうには、城の塔が立っていた。

「洞窟の奥に何ものかがいるんです」とギャレスは言った。「何かが足を引きずって歩いてきます」。猫は岩のひとつにぴょんと跳びのった。「高いところにいてください」と猫はジェイソンに警告した。「これからやってくるものが何かわからないですが、その上のほうに身を隠して待ってください」

 ジェイソンはギャレスのあとについて、洞窟の上部にのぼり、じぶんの体を岩のあいだに押しこめた。

 それが何であれ、姿があらわれた。

 それは、ひょろ長くて骨ばった、明るい銅色の髪のもじゃもじゃ頭の少年だった。少年はジェイソンより二つ三つ年上で、背はずっと高かった。洞窟の入り口で少年は太陽光を浴びて目をぱちくりさせ、もっていた小さなたいまつの火を吹き消した。

 何があらわれるかわからなかったジェイソンは安堵のため息をもらした。それに気づいた少年はくるりと振り向き、驚きの叫び声をあげた。少年が動き始めると、ジェイソンは岩のあいだから出てきた。丸まって身をひそめていたガレスも飛び出してきた。一瞬、だれもがたがいを恐れる緊迫した空気が流れた。ギャレスは毛を逆立て、ジェイソンは這いつくばって小石をかきあつめ、少年はたいまつを剣のように振りかざした。と、少年が笑いはじめた。

「すごいことだよ」少年はクスクス笑った。「はじめぼくはクマと出会ったと思ったんだ。それからキミの猫が見えたんだ。毛がまだ逆立っているよね。怪物がやってきてさらっていくと思ったんだろう」

「怪物がくるとは考えていなかったと思うよ」とジェイソンが言った。「驚いたときはいつもこうなるんだ。そうやって物笑いの種になるのは好きじゃないと思う」とジェイソンは付けくわえた。

「物笑いの種にしているわけじゃない」と少年は言った。「この猫、とてもきれいだ。目を見たことがあるかい? まるで燃えさかる丸い炎だ。からだの前に足を置いて、かぎつめをいつでも出せるように準備をととのえる。口をあけて歯を見せる。そういうのがきれいだ」

「いままで猫を見たことはないのかい?」

「もちろんあるとも」と少年はこたえた。「何百匹もね。でも何かを見たとき、それは見るのをやめたことを意味しない。つねに以前に見ていない何かがあるんだ」

 レオナルドという名の背の高い少年に導かれて、かれらは山の道を下っていった。村やオリーブ林の周囲をめぐって歩いた。レオナルドは帽子をかぶらず、背筋を伸ばし、ややのけぞって闊歩(かっぽ)した。明るい髪のせいか、彼の顔は太陽のように輝いていた。彼は十の異なることがらを、つぎつぎと、ジェイソンの返答を待たず、勢いよくしゃべった。たとえば火山について。火山を見たことがあるか、とジェイソンに聞く。どうやって地面から火が出てくるのか。大地の内側ではいまも火が燃えているのか。もしそうなら、地面が熱くないのはなぜか。レオナルドの声は奇妙で、高ぶっていて、ジェイソンはあちこちに位置を変える明るい色を連想した。

 花園や野菜畑、ブドウがたわわに実ったブドウ園などがある、だだっ広い農家に着くころまでに、レオナルドの話題は火山から魚や甲虫、鳥に移っていた。

 家の中にはいると、レオナルドの家族が長いディナー・テーブルについていた。仕立てのよい胴着を着た男が、いらいらした様子で顔を上げた。「もしまた遅れるようなことがあったら、森の中で、じぶんでディナーを見つけてもらうことになるからな」

 その横にいる年長の男がクスクス笑った。「ピエーロよ、どれだけ遅れたとしても、テーブルにつかせないってことになれば、レオナルドは森の中に一日中いてもどってこないだろうよ」。彼は銅色の髪の少年を見た。「で、こんどは何を見つけてきたんだい? カブトムシ? 蝶?」

「少年と猫です」とレオナルドはこたえた。

 みなジェイソンとギャレスの存在に気づいた。そしていっせいに話しかけはじめた。その場を静寂にさせたのはレオナルドの父、セル・ピエーロだった。彼はジェイソンを呼び、しげしげと眺めた。「さあ、少年よ、話すんだ! 真実を語りたまえ。おまえは逃げ出した徒弟見習いだろう。貿易商か? 石工? 裁縫職人か? マスターはだれだ? どのギルドに属しているのか?」

「質問より食べ物を」年長の男がジェイソンにウィンクしながら言った。男がレオナルドのおじ、セル・フランチェスコであることをジェイソンはあとで知った。

「すこしはこの家にいさせてよ」レオナルドが言った。

 セル・ピエーロはぶつぶつつぶやいていたが、ジェイソンにテーブルにつくようしぐさでうながした。ガレスは少年の足元にくっついていた。青白い、やさしい顔のきゃしゃな女性であるレオナルドの母(義母であることがあとでわかった)は召使いにさらなる皿をもってくるよう求めた。

 セル・ピエーロはなおもいらだっていた。「レオナルドは時間厳守を学ばないといかん」とフランチェスコに向かって言った。「あたりを歩き回り、山に登り、野良猫や脱走した徒弟見習いを見つける……。どういうことなんだ、フランチェスコ。これは精神の修行なのか。公証人は修行しなければならんからな」

「時間はたっぷりあるさ」とセル・フランチェスコ。

「時間があるだと?」ピエーロは叫んだ。「時間なんてないぞ! レオナルドは半分おとなだ。すぐにもフローレンスへ行って仕事をはじめるべきなのだ。ヴィンチ家の者はそうやって公証人になるのだ」

 セル・ピエーロの話が終わらないうちに扉がノックされた。はいってきたのは、がっちりした体格の、赤ら顔の男――農民だとジェイソンはみなした――で、木板を運んでいた。

「おお、ジャコポか」セル・ピエーロは振り向いた。「どうやってここまで来たんだ?」

 農民は丸い帽子を脱ぎ、家族に簡単な会釈をした。「折り入って頼みがあるんだが」彼は言った。「おれのじゃない、女房の頼みだ。女どもが考えることってわかるだろう?」。彼は木板を取り出した。「女房が言うには、寝室に絵が一枚必要だっていうんだ。それで家にあるけやきの木からこの板を切り出したってわけさ。知ってるだろ? 嵐の日に倒れた木だ。だがこれじゃ女房は満足しない。絵描きに何か描いてもらわんとな」

 セル・ピエーロは木板をとって、手の上で回した。「すこし曲がっているな」と彼は言った。「表面はすごくいいというわけでもない。だがワシとなんの関係がある? ヴィンチ家の者は公証人であって、絵描きではないぞ」

「頼むから」ジャコポは言った。「町に行くときにこれをもってってくれんかな。フローレンスなら安い値段でこれに絵を描いてくれる絵描きがいるだろうよ。まあ数ドゥカットしかおれはもっていないが」

 セル・ピエーロはうなずいた。「わかったよ、ジャコポ。これをもって町へ行ってくるとしよう」

 ジャコポはまた頭を下げた。「ありがとうよ、セル・ピエーロ。あんたに面倒なことはさせたくない。だが女房のためなんだ。わかってくれるだろう?」

 農民が家を去ったあち、レオナルドは木板を取り上げ、それをじっくりと見た。「どうしてフローレンスまでもっていかないとだめなんですか?」彼はたずねた。「ぼくがここで描くことができますよ」

 セル・ピエーロは大笑いした。「フランチェスコ、この坊やが言ったこと、聞いたかい? こいつが描くだとよ」。彼は息子のほうを向いた。「愛するレオナルドよ、ジャコポはじぶんのお金を払って絵を購入したいんだよ。ほんものの画家によって描かれるほんものの絵画がほしいんだ」

「ぼくだって描けるよ」とレオナルドは言った。「ぼくだけの色をつくることもできるんだ」

 ピエーロは鼻で笑った。「セル・レオナルドは名匠のように語っておられるぞ」

「ちょっとまてよ、ピエーロ」セル・フランチェスコがわってはいった。「こいつのスケッチ見たことがあるが、たいした腕前だったぞ」

「そりゃ否定はせんよ」セル・ピエーロは言った。「この年齢にしては才能があるとは思うさ。だがたいしたものじゃない。ひまな手による、ひまな精神の産物だ。こいつは商売について考えるべきだ。絵を塗ることじゃない」

「なぜ絵を描いちゃだめなんだ?」フランチェスコはたずねた。「描くのが好きなんじゃないか。芸術は言ってみれば正直な商売だ」

「道楽としては」セル・ピエーロは言った。「害のないものだ。だが無益なものだ。公証人にふさわしいものじゃない」

「でもぼくは公証人ではない!」レオナルドは叫んだ。

「公証人になるのだ」セル・ピエーロは鋭く切り返した。「すぐにおれが準備するよ。ずいぶん長く待たされたが」

 レオナルドは口を真一文字に結んだ。そして怒りのあまり顔をそむけた。

「さてさて」セル・フランチェスコは言った。「親子で言い争いはすべきじゃないな。ピエーロ、正直者としていわせてもらうが、公平な解答がただひとつだけある」

「わかってるよ」とセル・ピエーロ。「すぐに商売の世界にはいらなければならない」

「少年にチャンスをあげてもいいんじゃないか」フランチェスコはうながした。「ジャコポの木板に絵を描きたいんだろ? じゃ、そうさせろよ。それをフローレンスに運ぶんだ。それをおれの友だちのセル・アンドレア・ベロッキオに見せるといい。セル・アンドレアはすべての芸術のマスターだ。何か意見を言ってくれるだろうよ」

 セル・ピエーロはためらった。「レオナルドは木板をダメにしちまうな」

「そうしたらオレがもう一枚買うさ」とフランチェスコ。「自分の財布から出すからな。文句は言えまい」

 セル・ピエーロは一瞬よく考えた。「見事だな」と彼は言った。「最終決定を下すときが来たようだ」彼はレオナルドの手中にあった木板を指でたたいた。「レオナルド、お前は自分を芸術家と考えているのか? おまえがこの木板に何を描くのか見てみたいものだ」

 木板を握りしめたままレオナルドはとびあがった。「はい!」と彼は叫んだ。「見ることになります」彼はジェイソンに手招きした。ギャレスを先頭にふたりの少年は階段を上がってレオナルドの部屋へと急いだ。

 扉に一枚の紙片が鋲でとめてあった。それらにはジェイソンが読めない奇妙な文字が記されていた。

「立ち入り禁止。訪問者おことわりって書いてあるんだ」レオナルドは説明した。

「そんなふうには見えないけど」とジェイソン。

「それはぼくがさかさ文字で書いたからなんだ」とレオナルド。「後ろから書かれたもの、見たことないかい? たとえばオドラノエル(Odranoel)。さかさから読んだぼくの名前だ。ぼくの署名はこのやりかたで書いたものだけど、いわば二重のさかさ文字。鏡で見ると、また右から文字がならぶようになっている。これがぼくの秘密の記号」

「でももしだれも部屋にいれたくないんだったら」とジェイソン。「だれにも読めない注意書きをかかげるのか理解できない」

「だれも署名なんて気にしていないのさ」とレオナルド。「そこに注意書きを貼っているのは、ミステリアスにするためだ。もし人にはいってほしくなかったら、人にそう告げるだけの話なんだ」

 部屋の中でジェイソンは目をみはった。テーブルの上には紙が山のように積まれていた。それに蝶や岩、押し花のコレクションも。小さなかごのなかにはリスがいて、駆けまわっていた。ほかのかごの中では、眠たそうな緑色のヘビがとぐろを巻いていた。大きなビンや水差しの中には、一山のコケや尾の長い、斑点がはいったトカゲがいた。ほかのビンには数匹の魚がいて、興味津々のガレスを見ていた。

 テーブル上には、レオナルドがロウで固めた枠に水のはいったビンをセットしていた。「泡がどうやってできるか注意して見たことがあるかい?」レオナルドはたずねた。「ずっと観察したんだ。なかに何かあるにちがいない、見えない何かが。でもそれが何であるかわからないんだ。フローレンスの哲学者が知っているにちがいない。いつの日かかれらにたずねていたい。まあ、最初は自分自身でそれが何かつきとめたいけど」

 レオナルドは手を伸ばし、床の上の山積みの紙の中から数枚を取り出し、ジェイソンにわたした。「これが、お父さんが論じていることなんだ」

 ジェイソンはそれらをざっと見た。それらは植物や動物のドローイングであり、かごの中のリスの写生だった。レオナルドは花をスケッチしていた。花は大きく、中身を見せるため真ん中が切られていた。レオナルドに似たセル・ピエーロのまじめで、真剣そのものの顔が紙いっぱいに描かれていた。セル・フランチェスコのくしゃみをしている場面が漫画として描かれていた。

「ジャコポのために何を描くつもりだい?」ジェイソンはきいた。

「まだわからないよ」とレオナルドはこたえた。「しばらくこの木板をじっと見ようと思う。ひどく曲がっているよね。それをまっすぐに直さなければならない」

 少年は山積みの紙をどけて、テーブルの上にあきを作った。彼は木板をととのえ、ロウソクを置き、すわった。ロウソクの光が銅色の髪に反射し、それが少年の顔をぼんやりと黄金色に照らした。彼は眉をひそめ、くちびるをかみ、目を細めてさまざまな角度から木板をながめた。

「今何をしているんだい?」ジェイソンはたずねた。

 レオナルドは答えなかった。ジェイソンがまたおなじ質問をしても、答えなかった。少年は部屋にもうひとりいることを完璧に忘れてしまったかのようだった。話しかけることは無意味だった。レオナルドは目の前のことに集中していた。ほかのことには目もくれなかったのだ。

 ジェイソンは扉をしめて部屋からそっと出ていった。彼とジェイソンはダイニングルームへとつながる道を発見した。そこではレオナルドの母親が食事の準備をしていた。

「こんな人と出会ったことないな」ジェイソンは言った。「すべてのものをこんなにじっくりと観察する人、見たことも聞いたこともなかったよ」

「猫はそういうことをします」ギャレスはそう言った。「猫が観察しながら学んでいることを知ったら驚くでしょう」

レオナルドの部屋から、音が消された爆発音と、ガラスが当たって発するチリンチリンという音が聞こえてきた。

「あれは水のビンだろうか」とギャレスは言った。「それを煮立てているときに爆発が起きたらと思うとこわいよ」

家の中のだれもが聞いていると期待してジェイソンはレオナルドの部屋へと走った。しかしそれ以上の音はなかった。ヴィンチ家の人々はどうやら爆発にはなれっこになっていたようだった。


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