時をかける猫とぼく  ロイド・アリグザンダー 

 

11 セル・ピエーロ、絵を見る 

 ジェイソンとギャレスがベッドから出たとき、レオナルドはすでに起きていた。あるいは一睡もしていなかった。彼はまだテーブルの席に腰かけていた。彼の顔からは光が消えうせていた。朝早い時間では、彼は眠たそうな少年にすぎなかった。毎晩起きているせいか、そのボサボサの頭には床屋が必要だった。

 かごの中のリスは半狂乱にエクササイズをしていた。ギャレスはジャンプしてかごに近づき、金網に鼻を押し込み、この小さな動物を観察した。リスは回転する回し車の上を全速力で走ったが、いつもおなじ場所にいた。

「何を描くかきめたかい?」ジェイソンはたずねた。

 レオナルドはぶつぶつつぶやいただけだった。彼はジャコポの木板を放り上げた。

「まっすぐにしたんだね!」ジェイソンは言った。「それにすべすべして、すごく白くなった」。彼は木板をこまかく吟味した。レオナルドは徹夜して木板の表面をきれいにしたのだ。絵を描くにはこれ以上ない木板ができあがった。

「でもその上には何も描かれていないからね」レオナルドはため息をついた。「第一に、描きたいことがたくさんあって、そのどれかを選ぶことができない。そしてそれらはぼくの頭から飛び去ってしまい、もう何も考えられなくなってしまった。何かをしたいんだけど、それが何かわからないんだ」彼はぶぜんとして、つけくわえた。「すべての絵は消えてしまった」

「きみは何かをみつけることができるよ」ジェイソンは言った。「急ぐことはない」

「いま、それをやりたいんだ」いらいらしながらレオナルドは言った。「父はあすフローレンスへ行く。あすかその次の日にもどってくる。ぼくは父の帰りを待っていたい」

 リスは徒競走をやめた。チュッチュッ、キーキーと鳴きながらリスはガレスにとびかかった。猫は毛をさかだたせ、身を引いた。

「ほしいのはこれだ!」レオナルドは指を鳴らしながら叫んだ。「これを描きたいんだ! 前に気づくべきだった。そう、これなんだ」彼は興奮が冷めやらぬようだった。「猫の絵だ。猫は世界でもっとも美しい動物なんだ。でも猫らしいものを描こうとするなら、もっともむつかしい動物。

 きのうのこと覚えているかい? 山の中でぼくたちがみな互いをこわがったことを。でもこの猫はまったく変わらなかった。それがぼくの欲するアイデアだ」

「洞窟も描こうとしているの?」ジェイソンはたずねた。「岩によじのぼっているぼくも?」

「もちろんそれはない」苛立たしそうにレオナルドはこたえた。「きみの猫を描こうとしているだけだ」

「でもあなたはたしか……」

「欲しているアイデアと言ったんだ」レオナルドは説明した。「ほかのすべてを見せてくれと言ったわけじゃない。猫がテーマなんだ。だれかが絵を見たとき、残りの絵すべてが見たくなるものだ。かれらは猫を見て言うだろう。<おや、ここに猫がいるぞ。猫は怒っている。同時におそれてもいる。戦いの準備をしはじめた。猫は何かを恐れているようだ> それからかれらはそれが何であろうかといぶかしく思う」

「おそらくかれらは、このようなことばづかいをしないだろう」レオナルドはつづけた。「もしそれがいい内容のものならば、絵を通じて、ほかのたくさんのものについて考えることになるだろう。絵には目に見えるもの以上のものがつねにあるのだ」。レオナルドは立ち止まり、厳しい表情を見せた。「猫はもう毛を逆立たせることはなさそうだな。またやってほしいんだが」

「ぼくにはできないよ。猫が自分で必要だと感じたときにできるんだ」

「どうやったら猫をおそれさせるか、考えてみたよ」レオナルドはそう示唆した。「でも特別なものはないみたいだ。ただ十分に恐れたとき……」

「へえ、ないんだ」ジェイソンは言った。この奇妙な銅色の髪の少年が気に入っていたので、彼にギャレスをわずらわせるつもりはなかった。「この猫の絵なら、好きなときに描いてもけっこう。すわったり、寝たり、あちこち歩きまわったりする姿を描けばいい。それだけのことなんだけどね」

 レオナルドはがっかりしたようだった。「猫が怒ったとき、どんな様子だったか、よく覚えているんだ」ようやく重い口を開いた。「とてもいい絵が描けそうなんだ。テーマはしょっちゅう変えてきた。でもこの猫がいちばんいいんだ。そう、ぼくはこの猫を描きたいんだ」

 少年はチャコールを手に取り、紙の裏側にすばやくスケッチをはじめた。「猫というものは」レオナルドは紙の裏面が埋まるまで、手を動かしながら言った。「それを形成するものから成っている。後ろ足のこの筋肉。それがどれほど強いものか、想像したことがあるかい? だから猫は高く跳べるんだ。そしてこの背中。どんなふうにも変化できるんだ。ときには剣の刃のようにもなるんだ」

「すべてのもののバランスが取れている」レオナルドはつづけた。「すべての筋肉と骨と関節のね。これらも描きたいんだ」

「まあ、骨や筋肉を描こうとしていないことを願うよ。人はそういうの、好きじゃないと思うんだ」

「もちろん、骨や筋肉そのものを描くわけじゃない」レオナルドは言った。「でもぼくはそれらがどこにあるか知っているんだ。ほかのだれもそれらを見ることができなくてもね。見ることができるので、ぼくはよりよい絵を描くことができるんだ」

 ジェイソンは首を振った。「きみがどうやってこういったことを学んだのか、わからないよ」

「おじのフランチェスコがいろいろと教えてくれたんだ」とレオナルドは言った。「それ以外は自分で考えたことだ。考えることをやめる、そして観察するんだ」

 レオナルドはスケッチした紙をクシャクシャに丸めて、床の上に投げ捨てた。彼は木板を取り上げ、まだだれもさわっていない表面を見てうっとりとした。少年はすぐにほかのことを忘れるだろうとジェイソンは推測した。それは正しかった。一、二分でレオナルドは作業に没頭した。ジェイソンは肩越しに見てみたい欲求にかられた。しかしレオナルドの邪魔をすることになるので、あきらめ、ギャレスをかかえて下の階へ降りていった。

 日中ずっと、そして夜のあいだずっと、レオナルドは部屋の中に閉じこもったままだった。寝室に行く途中、ジェイソンはレオナルドの部屋の扉に新しい、大きな署名が入っていることに気づいた。それには「プラス思考で立ち入り禁止」と書かれていた。そして署名は「オドラノエル(ODRANOEL)」だった。レオナルドの母親が夕食をのせたトレイを扉の前に置いていたが、それは手付かずだった。

「部屋の中でうまくやっていることを願うよ」とジェイソン。「なかにはいることができたらなあ」

「猫は互いに鉢合わせないように気をつけます」とギャレスは言った。「ケンカの相手を探すのでなければ。もしいまレオナルドの邪魔をするなら、あなたもわずらわしく思うことになります。でも気にしないで。準備が整ったら、彼は部屋から出てくるでしょう」

 翌朝、レオナルドの部屋の扉があけられた。ジェイソンがこっそりなかをのぞきこむと、少年はテーブルに顔を伏せたままだった。テーブル上の腕の中で髪の乱れた頭がゆらゆらと揺れていた。ジェイソンはまたもこっそりと離れようとしたが、レオナルドが起き出して、すっくと立った。彼は青ざめた笑みを浮かべた。

「完成したよ」と彼は言った。

 ジェイソンは急いで部屋の中に入った。「どこにあるの? 見てもいいかな?」

「ダメだ、ダメ!」レオナルドは跳びあがって彼がイーゼルがわりに使っているイスのところまで走っていった。木板は布で覆われていた。銅色の髪の少年は木板の前に立ちはだかった。「だれにも見せたくないんだ。父が帰ってくるまでね」

「どうやって描いたの?」

 レオナルドは奇妙な薄笑いを浮かべただけで、問いには答えなかった。

 

 父と叔父が夕方、農場にもどってくると、レオナルドはふたりに部屋に来るようお願いした。すべての訪問者を歓迎しなかったのを知っていたので、ジェイソンは驚いてしまった。彼が部屋に入ると、最後の太陽光がはいってくる窓の近くで、レオナルドはカバーをかぶった絵を準備していた。彼はまた、テーブルの上のいくつかのロウソクに火をつけていた。レオナルドの母は玄関口で半分は誇り高い目で、半分は困惑の目で息子の様子を見ていた。セル・ピエーロは部屋に置かれたかごのリスやヘビ、乾いた葉の束、岩などを、あたかもここになかったらよかったとでも願っているかのように、眺めた。

「どうぞすわってください、お父さん」レオナルドは言った。

 セル・ピエーロは肩をすくめた。「こりゃあ特別なことだな」

「ぼくはジャコポのため、絵に取り組んできました」とレオナルドは語りはじめた。木板について、また蒸気によって、どうやってそれをまっすぐにしたかについて説明した。あまりにことこまかだったので、セル・ピエーロはせわしなく足を組みかえねばならなかった。

 ジェイソンはピエーロが手のひらであくびを隠すのを見逃さなかった。そしてなぜ単純にすぐに絵に掛かった布を引かないのか、そのままにしているのか理解できなかった。一瞬ののち、ジェイソンはレオナルドの手がヒモの端に達していることに気づいた。このときセル・ピエーロは注意散漫になっていたので、絵に掛かった布がゆっくりとあがっていることに気づいていなかった。レオナルドは話しつづけ、セル・ピエーロはそわそわしはじめた。

「おとうさん、見て」レオナルドは突然そう言った。

 セル・ピエーロは振り向き、まばたきし、そしてとびあがった。恐怖の叫びとともに彼はイスをひっくり返した。岩のコレクションが床に散らばった。下女の少女も叫んだ。「注意しろ! 飛び出てくるぞ!」セル・ピエーロは大声で言った。「外に出ろ、さあ、みな出るんだ!」

 ジェイソンは何か予感をもったので、必死に逃げることはなかった。そのときそれが絵にすぎないことを知っていたのに、首筋がぞっとしたのである。ガレスは身がまえ、うなり声をあげた。レオナルドは猫を描いていたが、正確にはそれは猫ではなかった。ガレスの様子を記憶していて、毛を逆立たせて怒っているさまを描いたが、多くの点で変えていた。絵の両目はギャレスの輝くオレンジ色の目だった。それ以外の部分の半分は猫だったが、残りの半分はジェイソンの知らない「何か」だった。ともかく動物はあまりに迫真にせまっていたので、いまにも木板からとびだしてきて、その凶悪なツメで部屋中を引き裂きそうだった。それはジェイソンがいままで見たなかでも、もっとも完璧な絵だった。そしてもっとも恐ろしい絵だった。

 それが絵にすぎないことに最初に気づいたのは、セル・フランチェスコだった。彼は高く裏返った声で笑いはじめた。「おお、ピエーロよ、見事に驚かされちまったなあ」

 青ざめたままのピエーロは、眉を寄せて憤懣やるかたなかいという風だった。

 フランチェスコはピエーロの肩をポンとたたいた。「正直に言いな! こんなのだとは思ってもみなかったって。レオナルドにこんな才能があるとは知らなかったろう。認めろよ。公正じゃないとな」

 レオナルドの母も前に進み出て、はじめて声をあげた。「ピエーロ」と彼女は静かに言った。「これは公証人の仕事ではありません。芸術家の仕事です。あなたが話すのを聞いていました。そしてレオナルドが論じ返すのを聞きました。わたしは何も言いませんでした。わたしはあなたが決めることが正しいと知っています。わたしは干渉したくありません。でもピエーロ、わたしは言いたいのです。もしレオナルドに公証人になることを強制しようとするなら、あなたはまちがっていると」

 ピエーロはしばらくだまったままだった。彼は絵を見つめ、それから息子のほうに向きなおった。

「おれはこの子を無理やり何かにさせたいなどとは思わぬ」と彼は言った。「若いから、考えも変わるさ。この子が真剣とは思わなかったのだ。この子には公証人になってほしかったよ。だがきのう芸術家と話す機会があった。セル・アンドレアだ。おれはレオナルドが描いたものをもっていき、彼に見せるつもりだ」

「だがセル・アンドレアの評価など必要ないだろう」とセル・ピエーロは言った。「自分自身、目くらいもっておる。この子はフローレンスで絵を学ぶことになるだろう。いま、この子はスタート地点に立ったのだ」

「ブラボー!」フランチェスコは叫んだ。「レオナルドはおまえが決心する前に驚かして、心を乱す必要があったんだ」

「フランチェスコよ」とピエールは言った。「そのことはもう忘れてくれ」

 セル・ピエーロのことばに偽りはなかった。翌日、叔父のフランチェスコ、レオナルドの母、ヴィンチ家の当主たちはあつまり、少年の旅立ちの準備を手伝った。混乱のなか、ジェイソンとギャレスが農場から抜け出して、花が咲き乱れる牧場を歩いていることにだれも気づかなかった。

「知っているだろうけど、ギャレス」とジェイソンは言った。「もしギャレスがいなかったら、セル・ピエーロがレオナルドに絵を学ばせることはなかっただろうね。絵のアイデアを与えたのは、ギャレス、キミだね。そしてすべてこのあとうまくいくようになったんだ」

「それは正確じゃないですね」とギャレス。「レオナルドという少年がいたからこそ、こういうことが起こったのです。アイデアを得るために、彼にはぼくという存在は必要なかったし、ほかのだれも必要なかったのです。じぶんで見つけることができたでしょう。だからぼくが助けたなどとは言いたくないのです」

「まあね」とジェイソンはしぶしぶ言った。「そう言うんならね。でもぼくはキミが助けたと思いたいんだ」

 空高く、雲の下でひとりぼっちの鳥がそよ風とたわむれていた。蝶が舞い、羽ばたいて牧場を越えていった。それが視界から消えるまで、少年と猫は輝く翼を追った。


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