時をかける猫とぼく ロイド・アリグザンダー
1555年のペルー
12 ドン・ディエゴ
花咲き乱れる草原のかわりに、ジェイソンとギャレスはレオナルドの部屋に引けを取らないほど散らかった部屋に立っていた。ここはじっさい、散らかった部屋ではなかった。石壁のひとつに重いマスケット銃がたてかけてあった。てっぺんが丸く、縁取りされたふたつのスパニッシュ・スタイルのヘルメットが、錆びた胸当てとともに、隅にころがっていた。まだ洗っていない洗濯ものが山積みになっていた。二足の左履きのブーツや刃が鋭い好戦的な剣もあった。木のテーブルに腕をのせ、顔をうずめていびきをかいてやすらかに眠っているのは、これらのものの持ち主だった。しかしながらジェイソンが動いた瞬間、眠っていた者は立ち上がり、目をぱちくりさせた。カールした口ひげととがったあごひげは目覚めず、まるでこの男に属していないかのようだった。男は驚いてはねた魚のようだった。
「だ、だれだ……な、なんだってんだ……」男はどもりながら言った。しかしギャレスに気づくと、男はとたんに顔をほころばせた。「もちろん!」彼は叫んだ。「猫を注文したのでありました! だがどうしてこんなにはやいのだ? おれがメッセンジャーに手紙をわたしたのはわずか六週間前だ。じつに驚くべきことだ。ペルーからスペインへ行って、もうもどってきたのか」。彼は突然口を閉じた。「これはおれの猫、だよね? まちがって配達されたんじゃないよね? ドン・ディエゴ・フランシスコ・エルナンデス・デル・ガト・エッレラ・イ・ロブレス様宛の猫だよね?」
ずっとドン・ディエゴはギャレスをやさしくなでていた。ジェイソンがこたえる前にこのスペイン人はギャレスをとりあげ、腕に抱いてゆりかごのように揺らした。「いやいや」と彼は言った。「まちがいがあるわけがない。すごく長く待ったのだ。幸運に値するだけ待ったのだ。それだけの価値があるのだ。だから猫をもらったのだ。ああ、猫だ。この名前の響きだけでも、ひとつの幸運といえるだろう」
ドン・ディエゴは涙をぬぐった。「感傷的になりすぎたようだな」彼は口ひげから鼻をすすった。「情緒的な血は母方から受け継いだものだ。ここではそんなにも孤独なのだ」そして付けくわえた。「軍隊にはいりたいなんて言ったつもりはなかった。だが父方の家族はおれに軍隊以外の選択肢をくれなかったのだ。あいつらは大枚をはたいて委任状を買い、部隊長におれを受け入れるようたのんだ。だからおれはかれらを失望させるわけにいかなかったのだ」
「委任状を買う?」ジェイソンはたずねた。
ドン・ディエゴは当惑のまなざしでジェイソンを見た。「あたりまえだろう」と彼は言った。「紳士が軍隊にはいるのに、ほかにどんな方法がある? だがこんなふうになるなんて夢にも思わなかったよ。ひとつだけ教えてあげよう」ドン・ディエゴはジェイソンの肩の向こうを見ながら声をひそめた。「そもそもの最初からうまくいっていなかったのだ。ピサロとその仲間たちは黄金を探しに来たのだ。ああ、あいつらは黄金を見つけた。うそじゃない。インディアンたちはおれが人生で見た黄金よりもたくさんの黄金を持っていた。みんなに分け与えられるほどたっぷりだ。インディアンたちはおれたちがほしいほど黄金をくれた。だがそれでもピサロと征服者たちには十分ではなかった。あいつらは貪欲でケンカっぱやくなっちまった。おたがいにだましあうようになった。話は長くなるが、そのときの者はだれひとり残っていないのさ」
「残っているのは争いだけだ」ドン・ディエゴ悲しそうにつづけた。「おれたちはインディアンたちと戦う。インディアンたちはおれたちと戦う。そしておれたちは仲間内で戦う。国王陛下から送られた提督は何をすればいいかわからないってありさまだ。まあ、どうでもいいことだが。おれは猫を飼っている。おれの関心事はそれだけだ。猫たちは黄金をもっている。たくさんの黄金だ。おれの猫は黄金をもっているのだ」ドン・ディエゴは夢見るように繰り返した。
「あなたが猫好きと聞いていれしいな」ジェイソンは言った。「でもなにか勘違いしてるみたいだけど、ぼくとぼくの猫はいっしょに旅してるんだ。ぼくが言いたいのは……」
「もちろん」ドン・ディエゴは叫んだ。「母方の家族はなんて思慮深いんだろう、猫を送ってくれるなんて。それに猫の世話をしてくれる少年もいっしょだなんて。ほんとにそうだ。あんたはつきそい兵なんだろ。これでなまけもので思慮のたりないペドロに我慢する必要はなくなりそうだ。いつもあいつにはどなってばかりいる。だけどあいつは聞く耳もたないし、言い返してくることもあるのだ。あいつはおれの宿舎をきれいにしておくことさえ拒むのだ。自分でやれって言うんだぜ」ドン・ディエゴは腕を広げて絶望をあらわした。「整理整頓なんてできやしない。だがすべてが変わったんだ。猫だよ。猫がいると落ち着くんだよ」
外でトランペットの音が鳴り響いた。ドン・ディエゴは手で自分の頭をたたいた。「教練の演習に遅刻しちまう。すっかり忘れていた。ああドキドキするな」彼は部屋のなかであわてだし、洗濯ものにけつまずき、胸当てをバックルでとめた。そのあいだヘルメットがたびたび目元までずれ落ちた。
ジェイソンは、これがドン・ディエゴの勘違いであるといいそびれてしまった。彼は部隊長が甲冑を着けるのを手伝った。バックルの半分がはずれたまま息もつかぬはやさで剣をとったものの、ドン・ディエゴは扉をあけて出たところでまっさかさまに転んでしまった。
ジェイソンはこのスペイン人が何度も足をもつらせながら兵舎の庭を横切っていくのを見た。槍部隊の兵士たちは体を硬直させてその様子をながめた。距離があるので、ドン・ディエゴが何と叫んでいるのかわからなかった。しかし兵士たちがまちがいをしでかしたのはたしかである。かれら自身がもつ槍のように体をこわばらせたまま、さまざまな方角に行進した。かれらは旋回し、互いにぶつかりあった。
「まあなんていうか」とジェイソン。「こんな軍隊見たことないよ」
「軍服を着たからといって兵士になれるものではありませんよ」とガレスは言った。「思うに、彼は故郷に帰るべきですよ」
「ひどく混乱しているように見えるね」とジェイソン。「故郷の飼い猫が届いたら、どうするつもりなんだろう」
「それについてはあとで考えるとして」とギャレスは言った。「猫が心配していのは、いま何が起きているかの一点なのです。子猫によく話して聞かせるように、一度に掃除できるのは、一本の前足だけなんです」
ジェイソンは全力をつくしてドン・ディエゴの部屋を片づけようとしたが、どうしようもなかった。部隊長はそんなにもたくさんのがらくたやロウソク、バックルがなくなったベルト、さびたピストル、二枚の油絵(父方の肖像画と母方の肖像画一枚ずつ)などを持っていた。ジェイソンは最後には、それらを部屋の隅の山積みになったものの上に置いた。テーブルの上は羊皮紙であふれんばかりだった。それらを整頓しようとしたとき、ジェイソンはドン・ディエゴが何を書いているかがわかった。
「どうやら辞書をつくっているようだ」ジェイソンはギャレスに言った。「片側にはインディアンのことばがならんでいる。もう片側にはその意味が説明されている」
「彼はインディアンについてもたくさん書いているようだ」ジェイソンはつづけた。「かれらのことをインカ人と呼んでいる。彼らがどのような生活を送っているか、どんな服を着ているか、そんなことが書かれている。どうしてこんなことするんだろう」
「ひとりぼっちで、ホームシックにかかったんでしょう。ほかに時間をつぶす方法がないのかな」ギャレスはドン・ディエゴの予備のヘルメットのなかで丸くなったまま、そう言った。「あるいは起きているできごとについて、また彼が見たこと、していることについて興味を持ち、たしかに記憶したいのかもしれませんね」
ジェイソンは文書越しにギャレスを見た。「彼は軍人であるよりも、歴史を書くほうがあっているんだろうね」
「本人はまちがいなく同意するでしょう」とギャレスは言った。「おそらく父方の家族が彼は軍に属するべきだと考えたのでしょう」
午後のなかばすぎ、顔を赤らめ、笑みを浮かべ、曲がったヘルメットをかぶって、ドン・ディエゴは部屋に駆け込んできた。将校たちの会食のあまりから彼は夕食をもってきた。フンフンと鼻歌を鳴らしながらテーブルにそれらをならべた。
「さてと」彼は手をこすりながら言った。「食事をとって、すこし寝て、それから芸当の訓練の時間だな」
「芸当をやるんですか」ジェイソンは興味深げにきいた。
「おれが? まさか! 猫がやるんだよ」
「猫?」ジェイソンは困惑してたずねた。「この猫、芸当なんてできませんけど」
「いまはできないかもしれないが」ドン・ディエゴは指をさしながら言った。「猫に教えてやるんだ。おれは猫をずっと探していた。時間と忍耐が必要だね。いまのおれには両方ともたっぷりとあるからね」
「で、いままで猫に芸当を教えたことあるんですか」
「いや、ないさ。教えたことなんてない」ドン・ディエゴは言った。「でも教えたいとずっと思ってきたんだ」
「教えたいといっても」とジェイソンはつづけた。「猫は芸当なんてやらないですよ。いや、やるかも。でもそれは猫がそれを気に入ったときだけです。猫は自分で芸当を考えるんです。だから猫に芸当を教えることはできません」
「でも猫は知的な生き物だから……」
「知性とそれとは関係ありません」とジェイソン。「猫は芸当ができないんです。ペットにすわれとか、死んだふりしろとか、お手とか命ずるなら、犬を飼うべきです。ペットと話をしたかったら、オウムを購入すべきでしょう」
「動物によっては得意な芸当をもっています」とジェイソンは説明した。「ほかの動物もなんかの取り柄があります。でも猫は猫であるだけで十分なのです」
ドン・ディエゴの口ヒゲは失望のあまりうなだれてしまった。一瞬部隊長が泣き出してしまうのではないかとジェイソンは思った。それほどにもスペイン人はしょぼくれてしまったのだ。ジェイソンは彼が何も言わないことを願った。
「おれは猫のことをなにも知らないんだな」と彼は重々しく言った。「自分だけの猫というのを持ったことはないんだ。母方の家族が飼っていたからな。おれはいつもこの猫を崇拝していた。だから猫を送ってもらったんだ。いまわかったよ、まちがいだってことが。もうひとつの勘違いだ」彼はため息をついた。「いつもおれはまちがってばかりだ」
「まちがいなんかじゃないですよ」ジェイソンは鼓舞するように言った。「猫は人を楽しませるために芸当を覚える必要がないんです。猫を眺めるだけで、また猫と遊ぶだけで楽しいんです。ためしに遊んでみてください。ぼくの言っていることがわかるでしょう」
ドン・ディエゴは試してみようと口では言ったが、その表情からは失望の色が消えていなかった。昼寝のあとスペイン人はガレスに芸当を教え込もうとはしなかった。その代わりにドン・ディエゴはテーブルの席にすわり、紙になにかを書きはじめた。
「きょう、おれはあたらしい何かを学んだ」すこし表情が明るくなったドン・ディエゴは言った。「インカでは、子どもたちを地面の穴のなかに立たせるそうだ。子どもたちが逃げ出さないようにそうしているのだろうか。子どもたちはほんとうにすばらしいよ」。ドン・ディエゴは鷲ペンを激しく動かしながら長い時間をかけて記述していった。
ギャレスはドン・ディエゴのテーブルの上にぴょんと跳びもり、鷲ペンの羽根の動きを眺めた。ドン・ディエゴのペンが行の終わりにいたるたびに、前脚をポンと出して、ペンを上から押さえた。部隊長は驚いて顔を上げ、クスクス笑った。「これも一種の芸当ではないかね」と彼は言った。「猫が自分で考えたゲームだからね。芸当よりもずっとすばらしいものだ」
そのあとギャレスはテーブルの上でからだを伸ばし、のどをゴロゴロ鳴らした。ドン・ディエゴはのけぞって猫の耳をなでた。「知ってるだろうけど」彼はジェイソンに言った。「この猫がいるだけでおれはたのしい気分になる。奇妙なことだろうか。猫といっしょにすわっているだけで、不思議なことに、すべてがいやされるのだ。もし猫が立ち上がって情けをこうようになったら、もはや猫を好きになることはないだろう。猫には威厳があるのだ。だからきみが正しかったということだ」
「おれのように兵士であることは」とドン・ディエゴは悲しそうにつけくわえた。「猫に芸当を教え込むほどばかばかしいことはない」
つづく数日間、ドン・ディエゴはギャレスのしぐさを見ることができて、とてもうれしそうだった――ほかの猫と変わるところはなかったのだが。そしてようやくこれが楽しいということを認めたのである。ドン・ディエゴが兵士たちに訓練をほどこしているあいだ、ジェイソンは部屋を片づけた。こうしてジェイソンは兵舎にすこしだけのスペースを見つけ、ギャレスもからだにあった場所を確保した。午後のあいだ、かれらは散歩しながら街の中を抜け、谷間にはいった。
町の名前はクスコだった。スペイン人が来るずっと前にインカ人はこの町を建設していた。家はほとんどが石で作られていた。通りはまっすぐで、よく保存されていた。城壁や宮殿はエジプトを思い起こさせた。じっさい、山の上には石のピラミッドが立っていたのだ。
ジェイソンはインカ人を見ることはなかった。というのもスペイン人がクスコを征服し、インカの兵士たちは谷間のほうに消えていたからである。畑にはわずかばかりのインディアンが残っていた。しかしかれらはインカ人がとらえた種族だった。ドン・ディエゴが説明したように、インカ人はペルーの他のインディアンの支配者だった。いまや支配者たちは生き残りをかけて戦わねばならなかった。
「ほんとうのインカ人を見たいものだ」とある日、町の境界線を越えたとき、ジェイソンは言った。ジェイソンは少々驚いたのだが、ギャレスはこたえなかった。そしてジェイソンはその理由がわかった。肩マントとストライプがはいったゲートルをつけた四人の戦士がどこからともなくあらわれ、立っていたのだ。ジェイソンはギャレスをかかえると、走って逃げだそうとした。
戦士のひとりが、両端に金属の球がついた三連のロープを投げた。一瞬ののち、ジェイソンとギャレスは重いロープにからまって、地面に投げ出されていた。インカ人の戦士たちは槍をもってかまえたまま前方に進み出て、ジェイソンとギャレスに狙いをさだめたのである。
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