時をかける猫とぼく ロイド・アリグザンダー
1600年のドイツ
16 魔女の村
波のつらなりはドイツの村のとんがり屋根のつらなりに変わった。山々の上に雲が動きなく垂れていた。太陽はさんさんと輝いていた。からっぽの市場の向こうの建物はみなほったらかしのオモチャのように静かだった。
ギャレスは首を伸ばし、空気のにおいをかいだ。「何か銅のようなものが、木が燃えるようにくすぶっていますね。酸っぱくて苦い何かが鼻を刺激し、頭が痛くて割れそうです」
「それは何なんだい?」ジェイソンはたずねた。
「そうですね」とギャレスは言った。「それは恐怖のにおいです。早くここを出ていってほうがいいでしょう」彼は玉石を敷いた広場の反対側に向かって歩き出した。
ジェイソンはあわててギャレスのあとを追った。曲がり角で何かがブンブンうなりながら頭をかすめていった。音をたてて飛んでいったのは小石だった。それはもうすこしでガレスに命中するところだった。すぐにつぎの小石がピュンとうなって黒猫のからだをかすめた。
ギャレスは耳をたたんで、走った。そのあとをジェイソンはバタバタ音をたてながら走り、曲がりくねった通りに出た。ギャレスは曲がり角の向こうに逃げこみ、暗い路地にすべりこんだ。ジェイソンが追いつくころには、猫はジャンプして傾いた屋根にのっていた。
ここは家々の裏側であり、広場を見下ろす位置にあることがわかった。四方を石壁が囲み、太陽をさえぎっていた。ギャレスは屋根をのぼって煙突のほうへ向かった。しかし途中で猫はとまり、しゃがんで、ネズミの穴を探しているのか、頭を屋根に押しつけるようなしぐさをした。
ジェイソンは這いのぼってようやくギャレスに追いついた。「ギャレス!」できるだけ聞こえるようにジェイソンはささやいた。「ネズミを探している場合じゃないぞ!」
ギャレスはしっぽを振った。「ネズミじゃないですよ。じぶんで見てください」
ジェイソンは屋根をなす木材のあいだにすきまがあることがわかった。そこから下の小さな部屋が見えた。
奇妙な絵柄の夜着を着たトンガリ鼻の男が三本足の火器のまわりをうろついていた。彼が燃えさかる炭の上に何かをひとつまみ落とすと、ポンと煙があがった。
「ザザモンクの精霊によって」長い杖を手に取り、足元にサークルを描きながら男は叫んだ。サークルの上を男はゆっくりと歩いた。一方向に、そしてつぎにその逆方向に。とがった鼻と揺れるあごの肉のせいで、彼は七面鳥に見えた。
「アスモデウス! アーリマン! ビールゼバブ!」男は叫んだ。「あらわれよ! われ、なんじに命ず!」
七面鳥顔の男はサークル上を歩くのをやめた。彼は大きなポットを取りあげ、指数本をそのなかにねじこんだ。そしてべとべとした大量の軟膏を取り出した。彼はそれをじぶんの顔、頭、腕に塗った。「精霊よ、おまえに呪いをかけよう!」
何も起こらなかった。彼は軟膏のポットと魔法の杖を落とし、サークルの真ん中で嫌そうな顔をしてすわった。
「どういうことだ! この男は魔法使いだぞ!」とジェイソンは言った。「呪いをかけようとしているようだ」
「この男は魔法使いとしてはたいしたことないですね」とギャレス。「さあ、来て!」
ギャレスは屋根の上を滑り降りた。ジェイソンも気をつけながら屋根の上をくだって、地面に跳び下りた。
「ここから行きましょう」とギャレスは言った。「通りの端に出るはずです」ガレスは言った。外からはほとんど見えないでしょう。石を投げた人はわれわれがまさかここにいるとは思わないでしょう。もっとも、もっといい武器を持っているかもしれませんが」
路地が終わったところから、猫と少年はダッシュして広場を横切った。急いで走り、石壁の近くに身をひそめた。それからもう一走りして、村の外縁にたどりついた。そこには家庭菜園があり、おばあさんがラディッシュを引っこ抜いていた。生活している人を見たのはこれが最初だった。
ジェイソンらを目にするや、おばあさんは硬直して立ちつくした。エプロンからラディッシュがポロポロこぼれ落ちた。
「さあ急いで!」おばあさんは叫んだ。「家の中にはいって!」
何が起きたか理解する前に、ジェイソンはおばあさんに肩をつかまれ、家の扉のほうに押しつけられた。ギャレスはかれらより先に家のなかにとびこんだ。
「ばかな子ね!」おばあさんは叫んだ。「白昼、通りで猫といっしょにいるなんて!」彼女は急いで扉に鍵をかけ、よろい戸をピシャっとしっかり閉めた。
「ぼくたちは通りを歩いていただけです」ジェイソンは言った。
「それだけでダメなのよ」とおばあさんは言った。「あなたたちはここではよそ者。あなたたちの村にあいつらは来なかったの? あいつらはどこにでもいるわ」
「だれが来るんですって?」ジェイソンはきいた。
「魔女狩りの人たちよ、もちろん」と彼女は言った。「ほかにだれがいて? 何か月もこんなことがつづいているわ。この村に魔女がいるってだれかが言い出したの。それがだれかもわたしは知らない。そのときから平和な日々はなくなったわ。だれかがつま先を痛めたり、病気になったりしたら、まただれかの畑の作物が枯れたら、それは魔女のせいということになるの」
「魔女狩りの人たちは魔女を見つけ出すの」と彼女はつづけた。「つまり、かれらはだれかを見つけ出すの。それがだれであろうとかまやしない。それはもうひどいものよ。かれらが何をするか、わたしの口からはとうてい言えないわ。
それに猫! なんてかわいそうな生き物! 猫の中には悪魔がいるっていうのよ。二日前、かれらは50匹を溺れさせたわ。もう50匹は焼き殺したの。かわいそうな苦難の動物! わたしのトラ猫も巻き添えにあったの」
おばあさんはイスに沈みこみ、首を振りながら涙を落した。
ジェイソンはおばあさんの肩に手を置いた。彼女は涙にぬれた顔をジェイソンに向けた。「わたしのかわいい猫を救えなかったの」彼女はむせび泣いた。「ほかの猫も救おうとしたわ。でもどうしようもなかった」
「猫にたいして心配するとか、悪意を持つとか、そういうことはないわ」彼女はつづけた。「ただ猫は嵐を呼び込むっていうの。風もね。猫は邪悪な目を持っているというの。その目で見るだけで呪いをかけることができるというの。猫は自分の姿を見えなくすることができるし、空を飛ぶことだってできる。猫は魔女の姿をとることができるし、魔女もまた猫の姿をとることができるというの。すべてはひとつで、おなじなの」
「魔女狩りの人たちはわたしが救った猫よりも多くの猫をとらえるの」と彼女は付けくわえた。「村にはほとんど猫は残っていないわ。わがトラ猫も行方不明よ」
おばあさんはまたむせび泣きをはじめた。ガレスはぴょんと彼女のひざの上にのった。彼女の頬に頭をこすりつけ、のどをゴロゴロと鳴らし、脚でやさしくもんだ。彼女をなぐさめるために猫ができることのすべてを試みたのである。
彼女はすこし落ち着きをとりもどし、ガレスをやさしくなでた。「粉屋のところへ行きなさい」と彼女はジェイソンに言った。「親方のヨハネスのところへ。女主人ウルスリナがあなたと猫を救うよう頼んでいると伝えて。ヨハネス親方はリンドハイムでただひとり機知に富んだ人物なのよ。親方は実直な人間。猫が悪魔でないって知っている。猫がいなくなったらネズミによって彼の穀物すべてがだいなしになるって嘆いているわ」
「ヨハネス親方のもとにはすでに人を送ったの」と彼女は言った。「親切にあなたたちをもてなしてくれるわ」
彼女はエプロンで涙をぬぐった。「とりあえず何かたべなきゃね」女主人ウルスリナは言った。
戸棚から彼女はジェイソンのためにパンとチーズを持ってきて、ギャレスにはお盆に注意深くミルクをそそいだ。
ギャレスがミルクをなめはじめようというとき、ジェイソンがチーズを口に入れようというとき、激しい扉へのノックが家中を揺らした。
女主人ウルスリナはびくっとした。「どこかに隠れて!」と彼女は叫んだ。「近頃の訪問客はトラブルしかもたらさないわね」。彼女はあわててジェイソンを戸棚のほうに引っ張っていった。からだがちょうどはいるくらいの戸棚に彼は押し込まれた。ギャレスは棚の上に身をひそめた。女主人ウルスリナはよたつきながらも扉にたどりついた。
「やっぱり親方だったのね」迷惑そうな表情を隠さずに彼女は言った。
「元気にしてらっしゃいますかな」弁舌達者な声が聞こえた。「たまたま通りかかったもんでな。おお、そうだ、今日こそは女主人ウルスリナが決心をかためる日にちがいない、そう思ったのだが」
「スペックフレッサー親方、もしわが家の前を通られるなら」と彼女は言った。「むだに道をはずれたことになります。でもあなたは正しい。わたしは決心をかためました」彼女はしっかりした口調でつづけた。「だいぶ前に決心しました。こたえはノーです。前とおなじでノーがこたえです」
「ちぇっ」スペックフレッサー親方は舌打ちした。「そんなに怒らなくてもいいだろうが。野原がいったいなんの役に立つ? その三辺はわしの土地と接しておる。わしは自分の土地の空白を埋めたいだけだ。だれだってわしの立場だったら、おなじように考えるだろうよ」
「あんたはリンドハイムでいちばんの金持ちだ」女主人ウルスリナはこたえた。「でもこの土地はあたしに属してるんだ。あたしの庭だ。ずっとあたしが世話してきたんだ。年取った者にとっては、それがささやかなしあわせってもんさ」
「もし土地を売る気がないってんだったら」スペックフレッサー親方は言った。「土地を得るにはいろんなやり方があるってことを思い知ることになるだろうな」彼の声は冷たさを増した。「町の評議会は魔女の土地を没収できるのさ。もちろんそのまえに魔女は火あぶりになっているだろうな」彼はつけくわえた。「評議会の長としてわしは土地をどうするかの決定権を持っておるのだ」
「あんたがあたしを魔女と呼ぶのかい?」女は叫んだ。「呼べるわけないよ! あたしはなにもしてないんだから」
「証拠があるってことになったら、どうするかのかね?」スペックフレッサー親方は言った。「呪いをかけるところを見たと言ったら? ほうきにまたがってるのを見たと言ったら? ばあさんのことばとスペックフレッサー親方のことば、審問官はどっちを信じるかね?」
「それにテーブルの上には、ふたりの食器がセットされておるぞ」スペックフレッサー親方はつづけた。「あんたはひとりしかいないのに。つまりこれは……」彼は一瞬間を置いた。「何かがいるってことだ。おや、おたくの戸棚が靴をはいておるぞ」
彼はおおまたで部屋を横切り、扉をあけた。「少年だ! それに猫も! すばらしい、すばらしい。お仲間かな? 黒魔術をおこなうのに黒猫は必要なんだろうな」
ギャレスは歯をむいてうなり、しっぽを立てた。
「ほう!」スペックフレッサー親方は叫んだ。「悪魔は正義の力をこわがるもんだ」
「彼はあなたをこわがったりしないよ!」ジェイソンは怒って叫んだ。「なにもこわがらないよ! あんたが言っていること聞いたよ。もし女主人ウルスリナを傷つけるつもりなら、みんなに言いつけてやるからな」
スペックフレッサー親方の顔は紫色になり、頬がプルプルふるえた。そしてジェイソンにたいしてこぶしをふりかざした。「わしを脅しているつもりか」彼は言い放った。「評議会は女主人ウルスリナが悪魔たちをもてなしていることに興味をもつだろうよ」
スペックフレッサー親方はきびすをかえし、家から出ていった。
女主人ウルスリナは額をぺしゃっとたたいた。「あんたはあたしの人生をめちゃくちゃにしたわ。いまあいつらはあたしをつかまえにくるよ」
「ぼくがかれらに何が起きたか話しますよ」ジェイソンは主張した。「かれらがどうやってぼくたちを傷つけるっていうんですか。ぼくたちは魔女じゃないし、ぼくの猫は悪魔じゃない。なにかをされるいわれなんてないですよ」
「でもね」女主人ウルスリナは叫んだ。「わからないの? そんなのどうでもいいのよ。ひとたびあいつらが認定したら、もう望みはないの。あなたはヨハネス親方のところに行って! 彼ならあなたを隠してくれるわ。村から脱出させてくれるわ」
「ぼくは逃げ隠れするつもりはないよ」ジェイソンは言った。
「しなくちゃならないの!」
「じゃああなたもいっしょに来て!」ジェイソンは言った。「もし来ないなら、ぼくたちもここに残る」
「まあたいしたものね」女主人ウルスリナはため息をついた。「でもあなたは先に行って。三人がいっしょにいるところを見られたらよくないわ。スペックフレッサー親方の思うつぼよ」
部屋の隅から彼女は編みかごを取ってきた。「猫はこのなかにいれて」彼女はかごを部屋の真ん中に置いた。
ジェイソンはギャレスをすばやくかごに入れ、ふたを閉めた。「あなたはあとから来るってヨハネス親方に話すよ」
「そうして!」彼女は言った。「とにかく急いで!」
彼女は足をひきずりながらも、できるだけはやくジェイソンを家から外に送り出した。
「野原を抜けて行って」女主人ウルスリナはうながした。「それから左へ曲がって。水車小屋はそこにあるから。川のほとりよ」
かごを持ってジェイソンは道を進んだ。エジプトでの日々が猫にとって至上の時であるとするなら、この村の日々は最低の時だな、とジェイソンは思った。
しかしスペックフレッサー親方はどうやって女主人ウルスリナを魔女として弾劾するんだろう、とジェイソンは不思議に思った。ジェイソンはスペックフレッサー親方のとがった鼻とゆれるあごのぜい肉を思い出した。頭にあぶらをたっぷり塗り、塗料がぬられた夜着を着ていたのはスペックフレッサー親方だった。
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