ケサル王変遷史   

古代の起源から、ニューエージ世代の救世主や漫画のヒーローとなるまで 

宮本神酒男 

 

ケサル王物語の起源について 

 チベットの伝承によると、古代社会はポン、ドゥン(sgrung)、デウ(lde’u)によって統治されていた。(註1)ドゥンとは、物語のことである。ロ・ドゥン(ro sgrung 屍語故事)やチャ・ドゥン(bya sgrung 鳥の故事雀の物語 mChil pa'i sgrungもそのひとつ)、ラ・ドゥン(lha sgrung 神の物語)などさまざまなドゥンがあった。そして物語を語り、歌う人をドゥンパと呼ぶ。(註2)
 現在、ドゥンといえばケサル王物語、ドゥンパといえばもっぱらケサルの語り手を指すようになった。すなわちドゥンにおけるケサルの割合が圧倒的に高くなったことを示している。

 ケサル王物語の起源は曖昧だが、そのもととなる英雄叙事詩の萌芽は、ポン、ドゥン、デウの時代にはすでに生まれていただろう。スタンが引用するマサンの物語もそのひとつである。牛頭の王マサンが「悪魔に対する神の戦いに加わって、神を助け、代償として大地を治める天の息子を地上に派遣してもらう」という筋書きはケサル王物語を彷彿とさせる。(註3)そこからさらに発展して、複雑な様式と構造を持つケサル王物語となるためには、どんな契機が必要だったのだろうか。

インドの『ラーマーヤナ』が影響を及ぼしたという説がある。(註4)王妃シーターが羅刹王ラーヴァナにさらわれたことから戦争が起こったように、王妃ドゥクモがホル国のクルカル王にさらわれたことから、ホル・リン戦争が勃発する。敦煌文書に『ラーマーヤナ』のチベット語の翻訳があり、9世紀にはチベット人が『ラーマーヤナ』を知っていたことがわかる。(註5)

 しかしそれ以上に形成に影響を与えたのは、中央アジアのテュルク系民族の英雄叙事詩かもしれない。ロシアのジルムンスキーによれば、『エディゲイ』(15世紀)や『キョルオウル』(16世紀)など数ある英雄叙事詩のなかでもっとも古く、広範囲に流布しているのは『アルパミシュ』である。(註6)

 おなじくジルムンスキーによれば、アルパミシュ型の英雄叙事詩は、7、8世紀のアルタイ山脈にまで遡ることができるという。とはいっても20世紀前半の有名な英雄叙事詩の歌手ウラガシェフ(18671946)が歌う叙事詩は、古代のそれとは異なるが、その原形を類推することは可能である。チベット人とテュルク系民族は戦ったり、(どちらかが)征服したり、融合したりしてきたので、英雄叙事詩が伝播することは十分にありえただろう。

 『アルパミシュ』の冒頭で、主人公は競馬、アーチェリー、剛弓、レスリングなどの競技に参加する。これらに勝てば美女バルチンと結婚できるという。主人公は勝ってバルチンの夫となり、王となる。そのあと主人公は強国カルムイクに攻め入るが、逆に捕らわれ、7年間を牢獄で過ごすことになる。その間に弟が実権を握り、妻バルチンに結婚を迫る。主人公はカルムイクの王女をかどわかして何とか脱出する。
 こうした展開に加え、空を飛ぶ駿馬に乗るなど、多くの点で妙にケサル王物語と似ている。またこれらは日本の百合若伝説やオデュッセイアとも共通するモティーフを含んでいて、こうした類型的な伝説が中央アジアを中心に広く伝播していたことがうかがえる。
(註7) 

 チャドウィックが指摘するように、中央アジアの英雄叙事詩の一般的なモティーフは「強襲、決闘、大がかりな家畜泥棒、復讐、反撃、求婚と結婚、誕生、英雄の驚くべき子供時代、競馬やレスリング、長い旅、遊牧生活の冒険」である。ケサル王物語がこれらと異なる点は、仏教的色彩を帯びていることくらいである。(註6) 

 つぎに、ケサルのモデルはだれか、その名の由来は何かについて考えたい。吐蕃の王ソンツェン・ガムポ(605?−649)やチソン・デツェン(755797)といった古代チベットの隆盛期の王の名がすぐ頭に浮かぶ。

ソンツェン・ガムポはチベットに最初に仏教をもたらした王と信じられている。また唐(文成公主)だけでなく、ネパールやシャンシュン、吐谷渾(アシャ)などから妃を娶ったことからもわかるように、覇を唱えた最初の王でもあった。チソン・デツェンに関して言えば、最初の仏教寺院(サムイェー寺)を建てたこと、中央アジアにまで版図を広げたことなど、法王としての業績はソンツェン・ガムポを上回るが、英雄としての印象は薄いかもしれない。

とはいえ、ナムカイ・ノルブからの引用だが、ニンマ派の学者ツェワン・ノルブ(16181755?)によると、ケサルはラン家のアニ・チャンチュブ・デコル(9661076?)の施主であり、彼(チャンチュブ・デコル)はケサルをチソン・デツェンの化身とみなし、自分自身はパドマサンバヴァの化身と確信していたという例もある。(註1)

 14世紀に成立されたとされるラン家の族史『ラン氏犀角宝巻』(ラン・ポティセル)には、記録に現れるもっとも古いケサル王の記述がある。ラン家のパクモドゥパはサキャ派の後を継いでチベットを支配している。この場合、施主・国王がケサル王で、師がチャンチュブ・デコルだとすれば、記憶に新しい施主・皇帝がモンゴル・ハーン(とくにフビライ・ハーン)と師がサキャ派高僧(サキャ・パンディタ、甥のパスパ)との関係(チョヨン関係 mchod yon 施主と受施者)を彷彿とさせる。フビライ・ハーンがケサル王のモデルとは考えにくいものの、世界王であるモンゴル・ハーンが世界獅子王ケサルのイメージに影響を与えたとしても不思議ではない。(註8) 


 ロルフ・スタンが唱えた「カエサル説」は十分に説得力を持っている。14世紀に編纂された『五部遺教』中の『国王遺教』(ギャルポ・カタン)には、「突厥(Gru-gu)のケサル」という記述がある。歴史書(『チベット王統明鏡』)には「クロム・ケサル・デンマ」(Khrom Gesar ’danma)という記述が見られる。また、「突厥ケサルはチベットに帰順した」という表現があり、ケサルを国王(カエサル)と考えれば、つじつまがあう。(註9)

 角厮羅(角は口ヘンの角)もまたケサルのモデル候補のひとりである。高昌磨楡(トルファン近郊。磨楡はモンユル、すなわち西チベットという説もある)に生まれた角厮羅(9971065)は、12歳のとき、河州(甘粛省臨夏あたり)の商人によって見出され、河州に連れていかれた。よほど高貴な顔をしていたのだろうか。実際、840年代に滅んだヤルルン朝チベット(吐蕃)の王族の直系の子孫だったのである。
 その血筋のよさから有力豪族(現在の平安県、ツォンカの首領李立遵)によって王に擁立されるが、成人して力を得ると、1032年頃、青唐城(西寧)に都を築いた。この小国は大国である宋と西夏の間でバランスを保ちながら(最終的には宋の側につくことになった)茶馬貿易によって潤い、栄えた。この賢王がケサルの候補とされるのは、その善政だけでなく、名前がケサルと似ていたこともあるだろう。

 清代の知識人は角厮羅に「嘉勒斯来」(jia le si lai)という字を当てた。「rGyal sras lags」(ギャルセ・ラー)すなわち、王子あるいは仏子(菩薩)と考えたのである。ところが角厮羅はgu si luoと読まれる。スタンはKio-sseu-loと読んでいる。これは一説にはゴセ、すなわちゴク妃の子(’Gog sras)だという。ケサルはゴク妃の子なので、これはケサルということを意味する。あるいは、尊称の「gesar lags」(ゲサル・ラー)とは考えられないだろうか。もしそうなら、上述のテュルク系と同様に国王(カエサル)と呼んだ可能性がある。しかし角厮羅モデル説の支持者は、現在それほど多くない。

 現在最有力候補として挙げられるのは、11世紀頃からの数百年、四川省の徳格(デルゲ)に実在した国リンツァンの王である。ナムカイ・ノルブによると、フビライ汗の国師だったパスパ(パクパ・ロド・ギェルツェン 1235−1280)が中国からチベットに戻るとき、リンのダラ・ツェギェル王子の「無敵の剣」を贈り物として受け取った。このダラ・ツェギェル王子は、ケサルの異母兄ギャツァ・シェーカルの息子だという。このことから、ケサルの時代を13世紀前半に比定することができる。(註1) 

 
実在したリンのケサルの時代はともかく、デルゲからアニマチェン山脈にかけての地域は「ケサル王物語揺籃の地」(サムテン・カルメイ)と呼ばれるほどケサル物語がさかんだった。
 パキスタンのバルチスタン地方の人々でさえ「ケサルは地元の物語だ」と主張するほど、リン国およびケサル王の所在地候補は各地に広がっている。しかし遺跡が多く、もっとも矛盾が少ないのはこの地方であるように思われる。
 リンのケサルは、しばしばザムリンのケサル(ザムリン=閻浮提、あるいは瞻部州、つまりこの世界)と呼ばれる。リンという名称はありふれた名前であり、どこにあってもおかしくない。こうしてリン国およびケサルは、具体的な名称からチベット全体の名前となり、伝説的な存在となっていったのだろう。


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