西欧に発見されたケサル王物語 

 西欧に最初に紹介されたケサル王物語は、モンゴル版の『ゲセル・ハーン物語』(1716年・康熙帝の命による北京木刻版)だった。(註10アムステルダム生まれの東洋学者でもあったモラヴィア教会の宣教師イザーク・ヤコブ・シュミット(17791847)が入手したこの物語をペテルブルクの帝国科学アカデミー賛助のもと、1836年に編集し、1839年にドイツ語訳を刊行した。(註11 

 このゲセル・ハーンの英訳(訳者はアイダ・ザイトリン)がニューヨークで出版されたのは、ようやく1927年のことだった。かつて、ケサルといえばモンゴル版のことだったのは、そのためである。(註12 

 1884年頃、ロシアの探検家GN・ポターニンはアムド地方でケサル王物語とはじめて出会った。青海省民和県でケサルの5部の写本を発見したのである。(註13

 チベット版ケサル王物語をはじめて西欧に紹介したのは、やはりモラヴィア教会の宣教師でもあったチベット学者アウグスト・ヘルマン・フランケ(18701930)である。ラダックのカラツェ村で収集したケサル王物語が出版されたのは、1905年のことだった。彼は著作のなかでたびたびシェー村のバージョンにも言及している。(註14

 ラダック版ケサルを読むと、素朴な民話風の筋に驚かされる。魔がはびこり、災難つづきの地上の人間を救うために天界から派遣されたケサルの菩薩的な役割はあまり強調されていないのだ。仏教説話的ではないが、北方の魔王との戦い、ホル王による王妃の誘拐、そのホルとの戦いなど骨組み部分は共通している。

 また、ラダック版のケサルは、ブルクマ(ドゥクモ)と結婚する前はストリート・チルドレンのような乞食少年だった。カム版のケサルも、生の獣皮をまとった汚い乞食のような少年だった。本来はラダック版のように、国王となることが約束されていない、みすぼらしい少年であったはずである。 

 

 話は前後するが、カムのゾクチェン寺あたりのチベット仏教寺院とミパム・リンポチェら著名な高僧の活動に触れなければならない。なぜなら、この時期(19世紀後半)にミパムらによって起こされた潮流は、当初は限定された地域内の現象だったが、のち、西欧において大きなムーブメントとなるからである。

 チベット仏教ニンマ派六大寺のひとつ、ゾクチェン寺は1664年(諸説あり)、四川省徳格県(デルゲ)にゾクチェン・ペマ・リクズィン(16251697)によって創建された。一定期間滞在した高僧を含めると、このペマ・リクズィンを筆頭として、ゾクチェン寺は数々のケサルの専門家を輩出してきた。ケンポ・ペマ・ヴァジュラ(18071884)、パトゥル・リンポチェ(18081887)、ミパム・リンポチェ(18461912)、第5世ゾクチェン・リンポチェ(18721935)という錚々たる面々である。(註15 

 このなかで、第1世ゾクチェン・リンポチェであるペマ・リクズィンはケサル王物語中の「タジク財宝分配」を、パトゥル・リンポチェは「シェン・デン内紛」を、ケンポ・ペマ・ヴァジュラは「雪山水晶ゾン」を書き、ミパム・リンポチェは「ケサル護法経」を著し、よく知られたケサル賛歌を詠んだ。そして、第5世ゾクチェン・リンポチェ(トゥプテン・チューキ・ドルジェ)は、ケサルやドゥクモのほか、30人の英雄やウェルマ神13柱などさまざまな人物や神が登場するケサル仮面劇を創出した。タシ・ツェリンによれば、このケサル仮面劇は徳格県内だけでも14の寺院(ニンマ派だけでなく、サキャ派、カギュ派、ボン教寺院を含む)でおこなわれているという。青海省にも伝わり、とくに貴徳県のゾナ寺のケサル仮面劇はよく知られている。(註16

 後世への影響を考えたとき、もっとも重要な人物は、英訳も多数あるミパム・リンポチェである。ミパムはリメ(超宗派運動)の代表的な哲学僧である。108のカンギュル(仏典)を7度読んだと言われる学識のある僧侶としては珍しく、テルトン(埋蔵経典発掘師)という一面を持っていた。彼は「心のテルマ」(ゴン・テル)を発見するタイプのテルトンだった。ただし存命中にテルトンと呼ばれることはなかった。(註17

 

 さて、フランケのあと、西欧にケサルを広く知らせる役目を持ったのが、アレクサンドラ・ダヴィッド=ネール(18681969)である。第一次大戦の時期、チベット国境近くのシッキムの洞窟にこもって苦行者から学び、難を避けてインドにやってきたダライラマ13世と面会している。また、禁を犯してシガツェまで行き、パンチェンラマと会っている。しかしこれがアダとなり、シッキムから追放され、シッキムからラサへ入るという可能性はついえてしまった。

 彼女はそこで大回りをしてラサをめざすことにした。ビルマ、ベトナムを経て日本に立ち寄り(その際河口慧海と会い)、北京経由で青海省のチベット仏教の大僧院クンブム(タール寺)に3年近く滞在してチベット仏教を学び、カム地方でケサル王物語について調べたりあいたあと、1924年、西欧の女性としてはじめてラサに到達した。50代の女性が直接山奥の現地へ出向き、第一級資料を集める姿に、敬服の念を覚えずにはいられない。
(註18

 記念碑的な作品『リンのケサルの超人的生涯』がパリで出版されたのは1931年であり、その英訳が出版されたのは1934年のことだった。この著作の中で、彼女ははじめてケサルの語り手(説唱芸人)と会ったことを具体的に記している。これはケサルについて書かれた最初の文章だろう。

 のち、とくに没後、彼女のチベット体験はフィクションではないかというあらぬ疑いをかけられることがあった。それは彼女の体験があまりにも特殊で、しかも冒険的で面白く、実際にあったこととはとうてい思えなかったからである。

 しかし若い頃から神智学協会に傾斜し、直接関わりがあったのも事実である。オカルトの大家ブラヴァツキー夫人の影響を強く受けていたのである。ただオカルトとのつながりをあきらかにすれば誤解が生まれると考えたのか、彼女は神智学協会のこと、インドについてのことは、あまり語ろうとしなかった。
(註198

彼女や『チベット死者の書』などを著したエヴァンス=ヴェンツ、チベット密教を世界に知らせたラマ・ゴーヴィンダ、美しく不思議なチベットを描いた画家ニコラス・レーリヒといった人々は、神秘的なチベットというイメージを作り上げるのに大きく寄与した。

 ニコラス・レーリヒ(ニコライ・リョーリフ 18741947)は神秘主的画家であり、探検家であり、ノーベル平和賞候補にもなった平和主義者でもあった。レーリヒは1920年代後半からしきりにシャンバラについてのエッセイを書くようになる。途中から彼はケサルについて触れるようになるが、おそらくその頃にダヴィッド=ネールの文章を読む機会があったのだろう。彼女を通じて、英雄ケサルが北方のシャンバラに転生し、人々が苦難にあるときに戻ってきて悪魔どもを一掃してくれるという救世主伝説があることを知る。(註20

この時期、ロシアこそシャンバラであるという風説が広まり、ケサル王もまたロシアに生まれたと多くの人が信じていた。それはブリヤートの仏教僧ドルジェフがロシアの皇帝に皇帝こそシャンバラの王となるべきだと説いていたからだ。この伝説は1938年にドルジェフが処刑され、完全に潰えてしまう。(註21

 このシャンバラ伝説とケサル伝説を融合した発信源んひとつは、上述のミパムだった。大学者ながらニンマ派のテルトンでもあった(ただし追認)彼は、ケサル王がシャンバラのルドラ・チャクリン王として転生するというヴィジョンを見た。ミパムの精神を引き継いだチョギャム・トゥルンパ・リンポチェがケサル王を現代の文脈のなかに蘇らせるのは1970年代のことだが、それについてはまたあとで述べたい。

 

 20世紀はじめ、チベット文化全般を西欧に紹介したことで功績があったのが、外交官として力を持ち、ダライラマ13世と親しく、チベット語の辞書を編纂したチャールズ・ベル卿(18701945)である。『チベットの宗教』(1931)の最初の数ページをベルはケサルに当てている。そのなかで、あるチベット人女性が日常生活のなかにいかにケサル王物語が融け込んでいて、重要であるか、具体的に述べている。(註22

 1927年から40年代にかけて、四川人の任乃強(18941989)は何度もカムに入り、ケサル王物語についての調査を行った。その調査記録は西欧の学者にも大いに役に立つことになった。(註13

 ケサル研究史において、もっとも画期的な存在であったといえるのが、ドイツ(現在のポーランド)生まれのフランスの(ユダヤ系)チベット学者ロルフ・スタン(19111999)である。1956年、スタンは上述のミパムのもとで編纂されたケサル王物語の3つの故事を翻訳し、出版した。そして1959年、ケサル研究の金字塔的著作ともいえる<Recherches L’epopee et le Barde au Tibet>が刊行されたのである。1950年代にスタンがカリンポンではじめてサンダクというケサルの語り手と会ったこともある意味で大きな事件だった。サンダクは、もとは摂政レティン・ラマのおかかえの語り手である。(註23 

 スタンが翻訳した3番目の故事(競馬、結婚、即位)を、音楽面、文学面においてより深く掘り下げて研究したのは、ミレイユ・エルフェだった。たとえば登場人物によっていかに音調が変わるかを示した。(1977)そしてこれらの故事のより正確な翻訳を試みたのは、ペマ・ツェリンとルドルフ・カチェフスキーである。(1987)また、その文化的背景を探ったのはマティアス・ヘルマンスだった。(1965(註24

 精神分析学的観点からケサルを分析しようとしたのはロバート・ポールである。(1982)たとえば、ケサルは北方の悪魔ルツェンの妻の助けを得て穴に隠れ、そのあとルツェンを殺す。ポールはそこに「父殺し」の象徴を見出す。現在、こうしたフロイト精神分析学の応用は流行遅れである。とはいえ、西欧の側からケサルに光を当てた意欲は評価されるべきだろう。(註25

 中国国内と外国との間で、ケサル研究に関して何ら共調関係はなかったが、そんななか1987年、第1回目の記念すべき国際ケサル学会が成都で開催された。しかしこの年から1989年にかけてはラサなどで暴動があいつぎ、政情が不安定になった時期でもあり、外国の多くの学者は参加を拒絶した。一応の成功を収めたのは第2回目の1991年にラサで開催された国際ケサル学会である。このときサムドゥプ(71)、女性のユドゥン(35)、トゥブテン(59)の3人のケサルの語り手が招かれ、演唱した。こちらから出向くだけでなく、招待して演じてもらう、というアイデアは斬新だったといえる。(註26


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