カシミール・シヴァ派のヨーガ シャンカラナンダ 宮本神酒男訳 目次 
1章 シヴァの恵み


T サーダナ 

 私は大学や大学院で哲学を学んだが、東洋哲学には馴染みがなかった。1970年代初頭にラム・ダスに会ってから、はじめてヨーガが学べるということ、またその道に入ることができることを知ったのである。

 その道は西欧哲学とは大いに異なっていた。というのもそれは実践的な方法論を持っていたからである。ここに言う方法とはヨーガのことであり、瞑想や坐法、呼吸法、自問、黙想などが含まれた。そのめざす到達点は、頭から足の先まで体すべてが変容することであり、たんなる知的な変化ではなかった。この過程全体のことがサーダナと呼ばれた。それは西洋哲学に欠けているものだった。

 客観的に見ると、西洋の思想家にも、個人の成長や変容という観念を強く持つ人々がいた。彼らは思考が存在と関係していることを理解していた。しかし1970年の私に関していえば、サーダナという概念は革命的だった。

 私からすれば教育システムはパンチに欠けていた。それは人を変容させるには薄味すぎたのだ。私はヨーガ・システムを礼賛するようになっていた。それは人間の変容の高度に発展した、洗練されたテクニックだったのである。

 私はサーダナを第二の教育と呼ぶ。第一の教育はわれわれの通常の教育であり、知性と人間性の教育である。人は考え方をいわば着たり脱いだりすることができる。あるいは少し離れたところにキープすることができる。

 何年も昔、私はニュージーランドの大学で講義をしたことがある。そのとき宗教学部の人たちと、私はインドでの体験とカシミール・シヴァ派の原理の概要を共有することができた。教授のひとりはキリスト教の専門家だった。ほかにも仏教やイスラム教の専門家もいた。対話をするなかで、私はキリスト教の専門家に言いかけた。「クリスチャンとしてあなたはおそらく……」

 するとすかさず彼は訂正した。「私はクリスチャンではありません。キリスト教の専門家(Christianist)です!」

 そのような距離の置き方は、サーダナでは許されていなかった。その哲学の内側に身を置き、はじめて知恵と技術を学ぶことができるのである。

 拙著『シッダの瞑想』のなかで、私は新しく発見しようという情熱がいかに特別なものであるかについて書いた。

 

 いま、ここにいる私に、何があるだろうか。これはムクタナンダの「哲学」だという考えが私の脳裏に不意に浮かんでくる。しかし事実以上も、以下もないのだ。西欧の哲学というのは、思考と行動の間の、修復されることがない亀裂を反映した精神面の領域に限られている。

 専門の思想家はオリジナリティのある、知的にすぐれたシステムを産みだすことばかりに興味を抱いている。その理論と人生との間にどんな関係があるかに思いを寄せることはきわめてまれである。社会主義者は自分自身が保守的な人とかなり違っていると思っているかもしれない。あるいは論理的なポジティブ論者は形而上学者よりも優越していると感じているかもしれない。しかし彼らはおなじライフスタイルを持ち、おなじ太鼓腹の体型で、ともにときどきマルティーニを飲んでいるかもしれない。

 

 私はババというのはインドの伝統における昔ながらのグルであって、哲学者ではないことを強く意識してきた。彼は精神的に私たちを刺激することに関心を持っていなかった。内なる「自己」の覚醒に導くため、われわれの存在全体における変化を産みだそうとしていたのだ。ババにとって考えというものはサーダナに直接つながっていた。本はババの「考え」ではなく、彼の体験について、すなわち彼の意識の実際の状態について書いたものである。

 アシュラムではランチのあとの休息時間、私はスピリチュアルな文学の本を広く読み漁っていた。ババが書いたものを読んで、私は二つの際立った特徴を見出した。ひとつは馴染みがあるもので、もうひとつは馴染みがなかった。前者はヴェーダンタに関するものだった。彼はブラフマンやマーヤー、サトチタナンダについて書き、ヴェーダンタの物語や絵を活用した。インドの哲学に出会って以来、ヴェーダンタの言語に私は慣れ親しんでいた。

 アドヴァイタ・ヴェーダンタ、すなわち不二のヴェーダンタの思想は通常偉大なる賢者シャンカラ(788820)と関連づけられてきた。20世紀の曲がり角に、西欧に最初に知られたインドのスワミ、ヴィヴェーカナンダとラマ・ティルタがツアーを敢行し、講演を行って以来、その思想は有名になった。ヴェーダンタの教えの苦行者的な色合いは、西欧人がインドの精神性にたいして抱くイメージを決定づけた。

 しかし私が魅了されたのはもうひとつの特徴だった。ババはクンダリニーやシャクティ、チティ(宇宙意識)について語った。ヴェーダンタの宇宙は私には平坦に思われた。それによるとこの世界は幻影にすぎない。しかしカシミール・シヴァ派の第二のヴィジョンによれば、この世界は炎と生に満ちているのだ。この世界が非・現実ととらえられているのではない。むしろ意識エネルギーの顫動(バイブレーション)とみなしているのだ。それは聖なるもののダイナミックな表明であり、細胞のひとつひとつまでもが神々しく、神秘的である。実際、すべてのものは神聖なのである。

ナ・シヴァムヴィディヤテ・クヴァチット(Na shivam vidyate kvachit):シヴァでないものは何もない。