テラペウタイ派とクリスチャン             宮本神酒男 

 「アレクサンドリアのテラペウタイ派の僧院とエジプトのクリスチャンの僧院とのあいだにつながりはあるのか」とアーサー・リリーは問う。もしあるとするなら、イエス・キリスト以前からキリスト教があったということになってしまう。テラペウタイ派はキリスト教のプロトタイプなのだろうか。

 その鍵を握るのは、聖マルコである。マルコは伝統的に福音書のなかでもっとも古い「マルコ福音書」の作者とみなされてきたが、本当にそうであるかどうかは断定できない。しかしいま重要なのは、聖マルコがアレクサンドリアの教会の創建者であり、初代アレクサンドリア総主教と考えられていることである。ここまでは史実と確定することはできないにしても、カトリックやコプト教が是認できる範囲内だった。

 問題は、マルコがもともとテラペウタイ派だったという伝承である。もしテラペウタイ派からキリスト教に転向したのだとしたら、テラペウタイ派がキリスト教のプロトタイプだったと断じてもかまわないだろう。しかしアーサー・リリーの時代から百年以上がたったいま、マルコをテラペウタイと結びつける考え自体がどこかへ消えてしまった。死海文書発見以前と以後とでは、情報量自体が格段に違うが、テラペウタイ派に関する情報はさして増えていないのだろう。

「テラペウタイ派が事実上初期キリスト教の共同体であるという見解をもっていたのは、ギリシアの歴史家エウセビオスである。彼はまた、フィロンはクリスチャンであると推測していた」と、『アレクサンドリアの興亡』(2007)の作者ジャスティン・ポラードは述べる。マルコが元テラペウタイ派であったかはともかくとして、テラペウタイ派がキリスト教につながっている可能性は十分高いといえるだろう。

 アーサー・リリーは、初期クリスチャンがどう呼ばれていたかが重要だという。彼らは外部から「折衷主義者」と呼ばれていた。また「仲間」「信奉者」「聖者たち」「神の神殿」「キリストの神殿」などの別称もあった。

「エッセネ派が聖霊の神殿と呼ばれていたことを思い起こしてほしい」とアーサー・リリーは喚起する。テラペウタイ派、キリスト教、エッセネ派はかぎりなく近い存在なのだ。しかしなぜ折衷主義者と呼ばれたのだろうか。ユダヤ教とローマ・ギリシアの宗教を混合しているとみなされたのだろうか。聖者と呼ばれたのは、インドでサドゥー(修行者)が「ホーリー・マン(聖なる者)」と呼ばれるのと似ているかもしれない。彼らは尊敬され、あがめられるが、同時に変わり者とみなされるのだ。

 アーサー・リリーによれば、ギリシアの教会(ギリシア正教)は直接テラペウタイ派の影響を受けているという。たとえば、睡眠を4時間、ときには2時間しかとらないこと。肉を食べないこと。飲み物は水しか飲まないこと。イチジク、ブドウ、チェリーのある小さな庭のなかで、聖アントニオスのように隠者として過ごすこと。これらがテラペウタイ派の影響というのなら、エジプトのコプト教もまたその影響を受けていると言いたくもなるが、アーサー・リリーの時代ではエジプトの宗教の状況がよく見えなかったのかもしれない。

*テラペウタイ派とエッセネ派はよく似た共同体だが、決定的な違いは、テラペウタイ派においては男女が平等だったが、エッセネ派では女性が排斥されていたということである。(マイケル・ベイジェント『イエス文書』) テラペウタイ派からは(あるいはアレクサンドリアに)何人かの女性哲学者も生まれた。(ジョーン・E・テイラー『1世紀アレクサンドリアの女性哲学者たち』)

 
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