アフマドは語る イエスは十字架上で死ななかった  宮本神酒男 

 そもそもイスラム教はイエス・キリストをどのように見ているのだろうか。現在の中東の情勢や「テロとの戦い」などから、あたかも最初からイスラム教とキリスト教(あるいは西洋文明)は不倶戴天の敵であったかのように思われがちだが、かならずしもそうではない。イスラム教徒にとってキリスト教徒やユダヤ教徒はおなじ啓典の民なのだ。

 『コーラン』にはつぎのように述べられている。

 マリアの息子、メシア(救世主)のイエスは、神の使徒にすぎない。(神が)マリアに託された言葉であり、(神から)発した霊力にすぎない。それゆえ、神と神の使徒たちを信ぜよ。けっして「3」なとど言ってはならない。慎め、そのほうがあなたがたのためになるだろう。神はただおひとりしかいらっしゃらない。神に息子など許されるわけがない。神は天と地のすべてを所有しておられるのだ。神は充足した守護者なのである。(『コーラン』4−171

 このように『コーラン』では、イエスはメシアであり、神の使徒であると認められている。ただし聖書に登場するたくさんの使徒のひとりにすぎない、いわんや神と同等、あるいは神の息子ということはありえない、と言っているのである。「3」すなわち三位一体も明確に否定している。「けっして3というな」とコーラン4章に述べられている。(イスラム教にいう使徒は預言者に近い。すなわちイザヤ、エレミヤ、エゼキエルら)

 アフマドはイスラム教徒なので、イエスに関してはおなじ立場を取っている。ムハンマドが言うように、イエスは十字架上では死ななかった、と彼は考えた、いや神による啓示を受けた。コーラン4章には、イエスは十字架にかけられなかったと述べられているが、アフマドはイエスが十字架にかけられて瀕死の重傷を負いながらも、生き延びることができたと主張しているのだ。*どうして(イーサー、すなわちイエスを)殺せるものか。どうして十字架に掛けられるものか。ただそのように見えただけのこと。(コーラン4−156)

 刑死を免れたイエスは、「イスラエルの失われた十部族」を求めてはるか遠くのインドへと向かう。カシミールに落ち着いたイエスはそこに長く暮らし、125年の長い生涯を終えたという。

 一見するとあまりにもばかばかしくて、トンデモ論のように思えるかもしれない。しかし第一にこれは論ではなく、啓示なのであり、アフマドはこれでもかとばかり東西の、とくにイスラム教のソースからあまたの証拠をつぎつぎと手品のごとく見せるのだ。だまされたと思ってアフマドの説明に耳を傾けてみよう。

 


⇒ つぎ(第7章) 

⇒ 補:バルナバ福音書の謎