カシミールとチベット                   宮本神酒男

 チベットにとって、カチェ(カシミール)はつねに重要な隣国だった。チベットに文明が現れるずっと前からカシミールは先進地域であり、チベットはその文化を取り入れてきた。カシミールの都スリナガルを建設したのはマウリヤ朝のアショーカ王(BC304−232)といわれる。イエス生誕より300年前、カシミールはすでに仏教の栄える地域であったと思われる。*カシミール人がイスラエルの失われた10支族の末裔であるとする説はおそくとも14世紀にはあった。(⇒「カシミール人イスラエル10支族末裔説」

 仏教の伝承によれば、ブッダの没後、その教えを確固としたものとするため、何度か比丘が集められ、結集(けつじゅう)がおこなわれた。その第4回目は2世紀、クシャーナ朝のカニシカ王のもと、カシミールで開催されたという。イエスの磔刑から百年余りのちのことである。イエスがカシミールに滞在し、2世紀に入ろうとする頃まで生きていたという信じがたい伝説が本当であったなら、仏教全盛期のカシミールをイエスは目撃したということになる。もっとも、イエス説のモデルとなっているサンディマティ王(BC34−AD17)は、12世紀に書かれたカシミール王統史『ラージャタランギニー』によれば、シヴァ神を深く信仰していたらしく、イエスがカシミールに来たという説にはほとんど根拠がないことになる。

 古代チベット帝国、いわゆる吐蕃が勃興したとき、ソンツェンガムポ王(569?−649)は文字を学ばせるため、トンミ・サンボータをインドへ送った。トンミが収集した文字の中からカシミールの文字が採用され、チベット文字が創成された。トンミはまちがいなくカシミールに長期間滞在したはずで、文字だけでなく仏教経典も学んだことだろう。*山口瑞凰氏によればトンミ・サンボータは伝説上の存在にすぎず、チベット文字のもととなったのもゴラクプルあたりの文字だという。しかしチベット文字の由来に関しては諸説あり、定説は確立されていない。

 7世紀から9世紀にかけては古代チベット帝国がもっとも版図を拡大した時期である。現在のラダックからザンスカル、ラフル、バルチスタン、さらにはギルギットを通って新疆、中央アジアへと侵攻した。このなかでパキスタンのギルギットは広義の意味においてカシミールの北端だった。

 10世紀、西チベットのグゲ王国の大翻訳官リンチェン・サンポ(9581055)もまたカシミールやその他仏教の拠点に長期間滞在し、厖大なサンスクリット語の仏教経典をチベットに持ち帰り、チベット語に翻訳した。チベットは世界に冠たる大乗仏教経典のコレクションを誇るが、その礎はこのときカシミールからもたらされたものによって築かれた。リンチェン・サンポはまた西チベットに、タボ寺(インド・スピティ)を含む100の仏教寺院を建てたという。 

 その後カシミールの仏教は衰退し、9世紀頃から勢いを増していたヒンドゥー教シヴァ派(9世紀のヴァスグプタ、10世紀のアビナヴグプタらが基礎を築いた)が圧倒するようになった。カシミールのアマルナートの洞窟寺院は現在にいたるまでシヴァ派のもっとも重要な聖地でありつづけている。

 13世紀になると、カシミールの住民の多くがイスラム教徒に転向するようになり、1346年、パシュトゥン人のシャムズッディン・シャー・ミルによってイスラム王朝が確立された。現在もカシミールの住民の大半はイスラム教徒であり、分離独立を許さないインドにあって火種はくすぶりつづけている。

 カシミールの南のジャンムーは1780年、ラホールのランジット・シン(17801839)率いるシーク軍によって支配された。カシミールがシーク帝国に併合され、侯国となるのは1819年である。マハラジャ(ジャンムー・カシミールの初代王)であるグーラブ・シン(17921857)は、シーク教軍隊の力を背景に周辺地域をつぎつぎと支配下におさめていった。グーラブ・シン自身はラージプート(王侯、戦士カースト)の名家に生まれたヒンドゥー教徒である。
 チベットとの関連で重要なのはキシュトワル(ジャンムーの北)出身のドグラ人将軍ゾラワル・シン(
17861841)である。彼が率いるドグラ軍はラダック、バルティスタンを陥れ、さらにはチベットに攻め込むが、1841年、ゾラワル・シンが戦死したことにより、勢いがそがれてしまった。

 このあと英国(東インド会社)とシーク帝国とのあいだの戦争が二度にわたり勃発した。第1次シーク戦争(18451846)と第2次シーク戦争(18481849)である。この二度の戦争を通じて英国はパンジャブ地方を支配下に治めることができた。

 グーラブ・シンはシーク戦争が勃発した当初は戦いから距離を置いたが、ソブラオンの戦い(1846)のときは仲裁者の役を負った。仲裁者といっても実質上英国の信任を受けていた。その証拠にグーラブ・シンはインダス川からカシミール渓谷にかけての地域、すなわちジャンムー・カシミール地方を与えられたのである。


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