ビルマ眩惑の日々 エリック・デイヴィス
*原題「ビルマの眩惑(Burmese daze)」は、ジョージ・オーウェルの「ビルマの日々(Burmese days)」をもじったタイトル。
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何が悲しいって、それは私に子供がないことだ。マンダレーの蒸し暑い、埃だらけの町で、ごろつきとならず者のビルマの守護神、勇敢なるチョーズワに会ったことを、いつの日か、子孫に語って聞かせられないのが残念でならないのだ。
Jと私が旅をしたのは八月だった。モンスーンの空は低く、どんよりと曇っていた。ガイドに連れられて行ったのはタウンビョン村だった。村でおこなわれる華々しいナップウェ(精霊祭)は、ビルマ全土によく知られていた。ナップウェとは、土俗的な、メロドラマの主役のような霊的存在である37のナッ神を敬い、宥め、祝福する儀礼をまる一週間、これでもかと繰り返すフェスティバルである。
雑踏でにぎわうタウンビョンの中心部は、露店やティー・ショップ、Tシャツにジーンズ姿のグローバリズム主義者で埋め尽くされていた。そこから鳴り響く銅鑼やドラムの音、この世のものとは思えない民族ポップの叫びに誘われるがまま、迷路のように張り巡らされた細かい路地を進んでいく。この音響こそが、なかにナッ神がいること、言い換えればきらびやかに着飾った類まれなる霊媒がいることを示していた。
そんな枝道のひとつを歩いていくと、笑みを浮かべた女性の集団に出くわした。彼らがここに寄っていけと示した小さな小屋に入ると、隣接する場所には楽団があり、けたたましい音楽を奏でていた。
仮設の台の上に腰を落ち着けると、ナッカドーと呼ばれる霊媒を中心とした秘密めいた集まりに、自動的に参加することになった。ナッカドーはレース編みの布がかぶされたナッ神の祭壇の前に胡坐をかいて坐り、あの世を見ているかのようにぼんやりと虚空を見ていた。
タウンビョンのナッカドーのほとんどが、いわゆるニューハーフと呼ばれる性倒錯者だった。目の前にいるナッカドーはあきらかに男だったが、ピンクや白のきらきらしたド派手なチンツ(更紗)を着て、女性らしさを強調し、鮮やかなオレンジ色のバンダナからは、低価格のチャット札の束をいくつも垂らしていた。ナッカドーは微笑みを浮かべ、だれかに仕草で筋の多い、ほのかにいやな匂いがするフライドチキンの足をわれわれに渡すよう指示した。われわれは義務的にそれをむしゃむしゃ食べた。
女たちは道をあけ、私にナッカドーのそばへ行くよう促した。ナッカドーは私にグランド・ロイヤル・ウィスキーを飲ませてくれた。それはごぼごぼと音をたてながら瓶から流れ出た。今日という日が終わる頃には、文字通り川のような太い流れができていることだろう。
その時点では、チキンとウイスキーが前述のチョーズワ神の名で知られるコー・ジー・チョーの存在を示していることを知らなかったが、ナッ神崇拝に関する記録から考えるに、どうやら私はその神を退散させるのに成功したらしい。
37のナッ神のリストは不完全で矛盾していることで悪名高い。それはしばしば人物が混成されたり、名前をいくつも持ったりし、そもそも神の数が37以上あった。ビルマ人はナッという言葉を天界の神々にも、身の回りの精霊にも適用するが、37の「偉大なるナッ神」というとき、歴史上実在したにせよ、伝説にすぎないにせよ、それはもともと人間であり、その場を離れたがらないで地上の霊的次元に身を置き、いつまでもさまよいつづける亡霊のような存在なのだ。彼らは王子であったり、美人であったりと、色とりどりである。そしてほとんどが、自己犠牲やライ病、虎に食われるなどの悲惨でむごたらしい状況のなかで、この世を去っている。
私の調べでは、コー・ジョー・チョーが酒の飲みすぎで死んだのか、生きたまま埋められたのか特定することはできなかったが、彼の人生の歩みは確固としたものだった。彼の賛歌から、堕落した信条をうかがうことができる。その信条は、ペルシアの詩人ハーフェズ(の詩に出てくる快楽を象徴する偽コイン)と50セント・コインを同等のものとみなすのである。
おれ様を知らないだって? 闘鶏でおれの姿を見かけたことはないのかい? 花火に興じているのを見たことはないのかい? 女房の家の醸造所でヤシ酒を浴びるように飲み、溝でのたうちまわっているのを見たことはないのかい? そんなときゃ村の乙女たちがおれさまを引き上げてくれるのさ。
私はこのナッカドーといっしょに写真を撮るべきだと思った。そこで私は500チャットほど払ってコー・ジー・チョーの現在の「入れ物」ににじり寄った。女たちにそそのかされて私はナッカドーの肩に手を回した。
彼の体全体が震えていた。神経過敏な引きつりは、古い漫画のベティ・ブープの登場人物を思い起こさせた。タウンビョンの霊媒は基本的に演技者である。しかしこの男は深いトランスに入っているように思われた。だれも、すくなくとも普通の人のだれも、ここでは心安らかには感じられない、
われわれの居場所は楽団を見るには立地がよかった。子供たちが言うように、楽団が「炸裂する」のを目の当たりにした。ドラマーはかわるがわる左右の手でスティックを持って原始的なリズムを叩きだし、ほかの男は凶暴にシンバルを鳴らした。
楽団の中央にはドラムがあり、バンド・リーダーはそこから全体を取り仕切りながら、ねばねばした土のようなもので調音しつつ、20個も連なる不揃いのドラムを乱れ打ちした。
よく似た車輪状の真鍮製と青銅製のゴングが2つあり、不規則な歩みのようなリズムで、長調の音階を醸し出していた。これらゴングのゆらめくような、ヒステリックな音階は、いたずら小僧が立てるようなドタン、バタン、カタカタというドラムの音にかぶさり、そこらをはね回っているようだった。
そこにさらに、耳をつんざくようなオーボエと、むせぶような、すこし割れたボーカルが加わるのである。それはせっかちで、めくるめくような、マルハナ蜂のダンスにも似て、私がいままで耳にしたなかでも、もっともぶっ飛んだ音楽だった。
それはワーナー・ブラザーズ制作の眩惑的で、エキゾチックなアニメーション用に作ったガレージ・ロック・ガムラン・バンドのサウンド・トラックといったところである。そのアニメーションのタイトルは「ダフィー・ダックのデビル崇拝」といったところか。
ビートはフランク・ザッパのように突拍子もなくギア・チェンジし、骨と神経にまで響いた。われわれの仮小屋でも、ビートに乗って踊っていたメガネの中年女性が憑依状態に陥った。彼女は震えはじめ、それから緩慢に、よろめきながら踊り始めた。それから高床の上で膝から崩れ落ちた。するとすぐさま自分たちで楽しんでいたふたりの年輩の女たちが駆け寄り、心配そうな目で見ながら彼女を介抱した。
あとで知ったのだが、彼女たちはナッ神が彼女のなかに長くとどまり、心霊回路をショートすること、もしくは彼女を殺してしまうことを必死に防いでいたのである。それから憑依した女はわれわれの次元から去り、彼女のもとの人格が戻ってきた。
彼女の家はヤンゴンにあり、タウンビョンには旅行で来ていた。家庭用品店の売り子をしていて、中流の生活を送っているという。
「音楽を聴いていたのは覚えています」と彼女は必死に説明を試みる。「でもそこで記憶が途絶えているのです」
2、3か月後、これといった徴(しるし)もなければ宗教的な雰囲気もなく、ナッカドーは派手な衣装を脱ぎ捨て、標準的なビルマの男性の衣装であるスカート状のロンジーをはき、ボタンダウン式のシャツを着ているだろう。
いま、彼はコー・ジー・チョーとしてのギグ(ステージの仕事)を終え、ナッ神信仰者と何のやりとりもせず、裏に引っ込んだ。Jと私がそこを離れようとしたとき、近くの楽団の演奏はクレッシェンドに達し、死者をも目覚めさせんばかりに盛り上がっていた。より正確にいえば、われわれの内部で死者が生き続けられるほどのサウンドである。
私にタウンビョンのことを教えてくれたのは、サン・シティ・ガールズのベース奏者であり、リーダーでもあったアラン・ビショップだった。
アランは1993年にはじめてビルマへ行き、その後も6回足を運んだ。彼はビルマ人の女性と結婚し、養女のティリ(セオリーと発音)は、ビショップが彼にとってなくてはならないサブライム・フリークワンシー・レーベルからリリースしたビザッロ・ワールドのミュージックCDやDVDのジャケットを作るのを手伝っている。
彼はタウンビョンのナップウェ(精霊祭)のフィルムを見せてくれた。それは東南アジアのブードゥー教といったおもむきだった。私の反応は「いますぐ、飛んで行け」だった。これは見なければいけない、と私は思った。
タウンビョンを訪れるということは、ビルマへ行くということだが、ビルマへ行くということは、気概はあるが猛者の旅行者とはいえない私に言いも知れぬ不安感を与えた。反体制派ゲリラの爆弾や肛門の寄生虫よりも、政治の不安定さからひどいことが起こるのではないかという不安のほうがまさっていた。
アジアに残る数少ない昔ながらの軍事独裁体制のひとつ、ビルマ(1989年、国家法と秩序回復委員会、現在の国家平和安定委員会によってミャンマーに改名された)は、強制労働や検閲、腐敗、無責任な経済政策などを実行する厄介者国家として、生き延びてきた。
言い換えるなら、ビルマは多くの発展途上国と似たり寄ったりである。将軍たちが多国籍企業とボール遊びをしないこと、あるいはほとんどの国家と関係を持ちたがらないことをのぞけば。
有名な民主活動家アウンサン・スーチーは現在のところ(2006年)自宅軟禁の状態に置かれている。彼女はずっと昔、この国を訪れないよう外国人に呼びかけていた。多くの西側諸国、とくに英語圏内の潜在的なツーリストは、彼女を尊敬していたので、呼びかけを守っていた。
しかし多くの民主主義に飢えていたビルマ人はこの点に関しては賛同しなかった。というのも外国からの訪問者は普通のビルマ人にもドルをもたらしてくれるし、ツーリストがやってきてカメラで撮影する地域では、大衆への弾圧もすこしは軽減されるだろうと考えたのだ。
アランに鼓舞されて、Jと私は冒険することに決めた。とはいえニュースは強制労働の問題によってマンダレー要塞などのツーリストの目的地が変更を余儀なくされ、私の不安は増すばかりだった。
バンコクのミャンマー大使館が私のビザ申請を拒絶したとき、ビルマは入域不可能な禁制区域のように思えた。申請はカオサン・ロードにあるトラベル・エージェントを通してなされたものだ。そう、あのカオサン、自由気ままなスタイルのバックパッカーがはまってしまうロンリー・プラネット地獄(リンボー)。
ビザ・セクションはわがパスポート上に押された古いインド・ビザに殴り書きされた「J」という文字を見逃さなかったのだ。それはジャーナリストであることを表していた。しかしわれわれはそれを大使館に突きだすしかない。そこで青ざめた蛍光灯の光を何時間も浴びながら、ときおり侮蔑的な言葉をぶつけられ、アメリカ人はどこに行ってもビジネスマンのふりをするだけだ、とクソ野郎に言われてしまう。そして暗いグリーンの制服を着たぶよぶよ顔の太った男に、下手な英語で「ジャーナリストは入国を許可されない」と宣告される。
われわれはへこたれずに、ミス・ミウと話をした。セクシーな図書館司書風のメガネをかけた教育を受けた若い女だ。彼女は「滞在中、余計なことにはいっさい鼻を突っ込みません」と公式に表明し、そうタイプすればよいでしょうと示唆した。トリックみたいなものだが、漫然と皮肉をこめて記したファックスが送られ、一週間後に私はビザを手にすることができた。どうやらツーリストがもたらす米ドルの疑似餌が偏執狂的な軍事体制のきまぐれな心をくすぐるのだろう。
「まるで水牛の群れのようだ」とヤンゴンに向かう車の中でトウは彼らのことをそう呼んだ。空港の無数の呼び込みと糊付けしたシャツを着たオペレーター(その踊るようなしぐさを再現できないのは残念だ)のあいだで受け渡されたわれわれは、タクシーに押し出されるように乗り込んだ。
車が動き出すと、助手席に飛び込んできたのがトウだった。トウは鋭い眼光をもつ、筋張った体格の男だった。彼はあけっぴろげに国のことを嘆き悲しみ、腐敗し金銭を要求する権力者たちをののしった。
「あいつらはCNNなんて見ないさ。メディアなんて知らないんだ。水牛の群れみたいなものだ。畑で争いごとをしたり、食ったり、寝たり、金儲けしたりする水牛なのさ」
おおかた察しが付くだろうけれど、トウもまたコー・タル・トラベル&ツアーというツアー会社を経営していた。そして滞在中車とドライバーを使えるプランを提示したのである。
ビルマに来るほとんどの欧米人ツーリストはこの車とドライバーの組み合わせを利用し、さらにガイドを雇うのが一般的だった。この方式だとかかる費用も少なめで、インフラの整っていない国では便利だった。列車を保有し、運行する政府に米ドルをプレゼントする必要はなかった。
トウは列車を「水牛列車」と呼んでいた。オンボロ車と癖のある英語でもって、ビルマのフリーランスのタクシー観光ガイドたちは、国中に観光路線を張り巡らせていた。欧米人ツーリストの大半を占めるフランス人、ドイツ人、南ヨーロッパ人らはそれを活用していた。
はじめてビルマを訪れた者として、Jと私はトウが勧めるまま、インレー湖、カロー、ピンダヤ洞窟、そしてワールド・クラスの観光地パガンを楽しくめぐった。われわれが唯一主張したのは、精霊祭のクライマックス、つまり満月が近い時期にタウンビョンを訪れることだった。
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