心風景 inner landscape 13    宮本神酒男

 パキスタン北部のフンザをはじめて訪ねたのはたしか1989年のことだった。のち、風の谷のナウシカの舞台らしいという噂が立って有名になるが、当時はグルジアとならぶ長寿の郷として知られていた。
 しかし長距離バスから降り立ったときのできごとは、あまりにも奇異で、鮮烈で、夢の中のできごとのようだった。(バスの隣の座席には、数々の逸話を残し、当時旅行者の間で伝説的存在となっていた「インドのみどりさん」が坐っていた) 
 町よりずっと下の路傍に立った私の目に、数百メートル先の坂上から近づいてくる数人のひとかたまりの人影が映った。それはかたまったり、離れたりしながら、みるみるうちに大きくなった。みな転げ落ちるように、全速力で走っていたからだ。つまずいて転んでも、立ち上がって走り続けた。しだいにはっきり見えてきたのだが、彼らはみなこびとだった。
 すさまじい勢いで彼らは私に襲いかかってきた。と思ったら、そのまま私のわきを抜けて砂塵を残して走り去った。風とともにこびと去りぬ、である。何人かは笑っていたように思う。彼らがどこに行ったか、なぜ走っていたかは、いまだにわからない。ともかく、長寿の郷と集団で走るこびとたちとでは、イメージがかけはなれすぎていた。

 しばらく行くとやはり遠くのほうに人影があり、こちらに向かって手を振っているようだった。10分後、坂道を上ってようやくその人物の顔が判別できるようになった。半年前にジャカルタで知り合ったとても人のいい日本人青年である。互いに居場所を知らなかったのに、どうしてこんな田舎道で出会うのだろうか。
 偶然会う、ということはときどきある。たとえば21世紀最初の日の出を見ようとインド最南端のカニヤクマリ岬に行った。同様にたくさんの人が集まっていたが、そのなかに知り合いの編集者がいてびっくりしたことがある。そこではインドのほかの町やビエンチャンでよく偶然出会った青年とも再会している。
 フンザで会った日本人とはその後も偶然会う機会があったが、いつでも好きな時に会えるような気がし始めると、なぜか途端に会えなくなってしまうものである。

フォートの中から

 私は地元の金髪まじりの19歳の少年をガイドとして雇い、翌々日、トレッキングに出発した。この写真の王宮の向こうの峡谷を抜けて登っていった。少年いわく、自分を気に入ってくれた米国人の客に招待されたので、近く米国に渡るということだった。話を聞くと、どう考えてもその米国人はホモおやじである。その後本当に渡米したかどうかはわからない。この少年にはあとで登山ナイフを盗られてしまうので、彼の行く末など知りたくもないが。

 この7千m級の山頂が迫る、すぐわきが氷河という谷間のなめらかな緑の草地はほんとうに美しかった。その牧草の上にテントを張って本を読んでいると、何かムシャムシャという音が聞こえた。見ると一匹のヤギが「地球の歩き方」を食べているのだ。烈火のごとく怒るところだが、いたずら者のヤギを見ると怒りはおさまった。ヤギをペットとして飼うチベット人を何人も見てきたが、ペットとして飼うヤギは、犬とは違う魅力があるのだろう。
 この牧草地に小屋があり、なかのテーブルに黒いゼリーがあった。近づくとゼリーが突然わっと飛び散った。それらはハエだった。ハエがいなくなると、そこにあったのはヤギのチーズだった。それを指ですくって食べると、夢心地になるほどおいしかった。衛生面はともかく、味は一級品だった。
 夜、テントに横たわったが、騒音でなかなか眠れなかった。真横の氷河が始終うるさいのである。ギシギシという音はましなほうで、ときおり爆発音がとどろいた。そのたびにびっくりして私は飛び起きた。

 翌朝、氷河の横を登っていくと、高度が増し、酸素が減り、しだいに私の頭はぼっとしてきた。腰を下ろすと、その瞬間に私は白日夢を見ていた。白日夢のなかで、私は何人かの外国人登山家と会い、話をした。日本人登山家とも会話をした。彼は医師だと自己紹介した。後日私は古い新聞を調べて、何年か前に近くの山で遭難した日本人医師の登山家に関する記事を見つけた。酸素が欠乏したことによって起こる幻覚かもしれないが、キナウル(インド)の死者を送る祭りに参加したとき、亡魂の存在を強く感じたのは標高4300mの地点だった。幻覚とは言い切れない「存在」を感じたのはたしかだ。

 翌日、山の尾根を越えると、巨大な岩の表面がきらきら輝いているのが目に入った。宝石がはまりこんでいるのである。そういえば町で子供たちがルビーの原石1個を1ドルで売っていた。これはルビーだろう。しかし岩からルビーを取り出すことはできない。そのあと砂の多い斜面を砂煙をあげながら降りるとき、ときどききらりと光るものが見えた。小魚をつかみ取りするように光るものをつかむと、それはルビーだった。私はこのようにして、村里に降りるまでに、袋いっぱいのルビーの原石を得たのである。

Baltit Fort 

 帰国後、練馬の鉱物科学研究所を訪ねたとき、堀秀道所長にこの「ルビー」を見てもらったことがある。その鑑定結果は「ルビーではありません」だった。このときの落胆をいまも覚えている。すかさずフォローするように堀先生は言った。「これはガーネットです。立派な宝石ですよ」。この地域からルビーが採れるのはたしかなので、別の場所ならルビーを発見できるかもしれないという。
 いま、フンザの店で売っているのはルビーとラピスラズリである。ラピスラズリは、それほど遠くない産地、アフガニスタンのワハン地区から来ているのだろう。

 その夜はガイドの家族が所有するアプリコットの林(果樹園)の中にテントを張ってすごした。ひとりではなかった。一頭の子牛がいたのである。おとなの牛は山のほうに放牧されていたが、子供ひとり残されていたのだ。思いもよらないことに、この子牛はひどくうるさかった。昼も夜もずっとムシャムシャと食べているのだ。おそらく反芻しているのだろう。そういえば胃が3つあったっけ? 理由はともかく、耳元で一日中反芻されると、イライラがつのり、「黙れ!」と文句を言っても、その潤んだ眼で見返されると、何も言えなくなってしまった。
 果樹園ではアプリコット取り放題だった。もぎとって黄色の果肉を食べる。甘く、やや酸っぱく、極楽の味だ。食べ終わると種を石でかち割る。するとアーモンドが出てくる。これが杏仁(アンニン)というものなのだろう。こんなにおいしいのに、その存在さえ知らなかったのはなぜだろう?


 フンザは岩絵の宝庫 

 時はたって2007年、フンザに冬がしのびよってきていたが、こじんまりとしたホテルの中庭の花壇はさまざまな花がいまが盛りとばかり咲き誇っていた。ある日そこに牛が放たれていた。やや小ぶりの若い牛である。私は水牛を含めた牛が大好きで、牧場だろうとバラナシの路地であろうとすぐに話しかけてしまう。広西チワン族自治区の山をひとり歩いていたとき、何時間も牛がついてきて困ったこともあった。
 ホテルの中庭にいた牛は、見ると花壇の花をムシャムシャと食べていた。私は牛に花を食べないように語りかけたが、もちろん牛はかまわず花を食べ続けた。
 その日の夕方、ホテルのレストランに入ると、待ち構えていたかのように支配人が入口付近にいて、私に言った。
「今日は特別なビーフカレーがありますよ。いかがですか」
 インドからパキスタンに入ると、肉、とくにビーフを食べる機会が増え、なにか居心地が悪くなる。インドでは、ヒンドゥー教徒にあわせてにわか菜食主義者になったりするが、ときおり誘惑に負けてチキンカレーやタンドリチキンを食べてしまうことがある。カルカッタではビーフのシシカバブを食べたこともあった。
 しかしこの日のように愛着を感じた牛を食べるのはつらいものである。不幸なことに、いや不幸中の幸いなのか、このビーフカレーは絶品だった。

 シャーマン? 古代英雄? 宇宙人? 

 こうした「思い出話」を書きながらも、私はある種のもどかしさを感じる。風景やトレッキング以外にも興味深い点がたくさんあるのに、はじめてフンザに行ったときの私は気づいていないからだ。
 たとえば、7世紀末から8世紀にかけて、チベット軍はこのあたりまでやってきていて、チベット人はあきらかにここで西方文化(ペルシア文化)を吸収している。逆にチベット文化も当地に痕跡を残している。近年までフンザには、英雄ケサル王物語を歌う吟遊詩人がいたのだ。
 チベットのボン教徒は、ブルシャ(ギルギット地区)が古代シャンシュン国の重要な地区のひとつであったと主張する。フンザもギルギット地区のなかにあった。残っている岩絵からだけでも、フンザの重要性が推測される。
 ほかに興味深いのは、人口500人ばかりのドマーキと呼ばれる超少数民族である。驚くべきことに、彼らはジプシーの祖先なのだという。ジプシーの祖先がエジプトではなく、インドから来たらしいことは、最近の学者がよく言うことである。しかしナウシカの谷にジプシーの祖先がいるとは……。
 じつはここだけでなく、ヒマラヤのどこにも芸能や演奏に従事する被差別民族がいるが、彼らこそジプシーの祖先といえるだろう。
 パキスタン北部の歴史や言語についてはのちにあらためて論じたい。


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Baltit Fort, Hunza (Photo M. Miyamoto)