心風景 inner landscapes 27    宮本神酒男 


At the tomb of Shah Jamal, Lahore, Pakistan

スーフィー・ナイトへようこそ (改訂版) 

 はじめて「スーフィー・ナイト」に行ったときの、期待と不安がないまぜになった、熱病にでも罹(かか)ったかのような感覚が昨日のことのようにふつふつとよみがえってくる。2007年の夏の終わりのことだった。夕闇が降りたラホールの下町の裏通りを、地元の友人に案内されて奥深くはいっていった。異国の暗闇の路地を歩くには勇気を奮い立たせねばならなかったが、この先に聖者廟のシャー・ジャマル廟があるという。

 私にとってこの聖者廟詣ではとても意義深いことだった。当時私はすでに自称「スーフィー好き」だった。スーフィー好きといっても、私にとってのスーフィーとはトルコのコンヤに拠点を置いたペルシア詩人ルーミーであり、バンコクの古書店で見つけたファリード・アッタールの「イスラーム神秘主義聖者列伝」と「鳥の言葉」の英訳本に描かれる神秘主義者のことだった。つまり文学のジャンルの話だった。またルーミー・ファンである私にとってルーミーが創案したとされるデルウィーシュの旋舞も重要なスーフィー・イメージの要素だった。

一方でワールドミュージック好きでもあった私は、ヌスラト・ファテ・アリ・ハーンをはじめとするカッワーリー音楽を聴いていた。しかしこのカッワーリー音楽とデルウィーシュの旋舞がおなじスーフィーという言葉のもとにまとめられることにはピンとこなかった。

 そもそもスーフィーとはだれなのか。スーフィーは現在何万人もいるのか、それともひとりもいないのか、それすらよくわかっていなかった。聖者廟がスーフィー廟であることを知ったのも、木曜の夜に信徒が聖者廟に集まることを知ったのもこのときだった。聖者シャー・ジャマル(15881671)の廟の木曜夜の集会は、ライブ・コンサートのように活気があるということでよく知られ、「スーフィー・ナイト」と呼ばれていた。私ははじめてスーフィーというものを形あるものとして目撃し、体験する機会を得たのだった。

 こんな機会を前にして、興奮せずにいられるだろうか? 

 暗闇を抜けるとそこは妖しい光の世界だった。照らし出された狭い空間は中庭らしく、すでに地べたに座った数百人の白い装束の人々でぎっしり埋まっていた。白い装束の人々といってもそれは一般のパキスタン人の男性のことであり、特別な宗教の信徒のユニフォームというわけではなかった。人いきれのなかを通ると、数人のヨーロッパ人(米国人は憎悪の対象なのでまれにしかいない)がかたまって座っているエリアがあり、そこで二、三人の人にずれてもらって私が座る場所をあけてもらった。

 腰を下ろして上半身を壁にあずけ、なかの様子を観察した。二百人か三百人か、あるいはそれ以上の人々(全員男!)が、てんでにまわりの人と談笑したり、タバコを吸ったりしているだけで、なにかがはじまるというふうでもなかった。混沌の世界だった。ふと自分が身体をあずけていた壁を見ると、それは壁ではなく、石製の棺桶のようだった。聖者廟の本尊(つまり墓)なのだろうか? このなかにシャー・ジャマルという名のスーフィーが眠っているのだろうか。もしそうだとすると、寄りかかれるほどぞんざいに扱われてもいいのだろうか。このあたりに偶像崇拝は憎悪に近いほど嫌うが、聖者崇拝は存在するというイスラム教の微妙な性格の一面を見るような気がした。(一部の原理主義者は聖者崇拝を嫌い、テロの標的にしている)

 突然落雷のように太鼓の音がけたたましく響き渡った。中庭の群衆にピシリと電流が流れた。エネルギーを賦与された個々の人は震えるように身体を揺らし始めた。トランス・ミュージックのようにノリがよく、私はうなずくように頭をたてにふりながら座ったまま身体をリズミカルに動かした。しかし目を開けてほかの人たちを見ると、みな頭をたてでなく、横にふっているのだ。ときには信じられないほど速く。

 私も負けじと頭を横に振ってみた。あ、ダメだ、脳みそがグチャグチャになる、と私は思った。本当に脳みそがユサユサ揺れているように感じたのである。そこですこし速度を落として頭を振ってみた。しだいにボアーッとして気持ちがよくなっていく。忘我の境地、これぞトランスだ。聖者廟の打楽器音楽はトランス・ミュージックだった。

 私がもっとも驚いたことは、ペアのドル(両面太鼓)奏者のひとりがあきらかに天才であったことだ。文章でその天才ぶりを伝えるのは至難の業だが、人並みはずれたまれなる技術と感性を彼がもっていることは、音を一瞬聴いただけでわかった。ガイドブック「ロンリープラネット」によれば、この奏者は耳が不自由なのだという。耳が聞こえないのにこのすばらしい演奏はどうやったら可能なのだろうか。太鼓叩きはふたりでペアを成しているので、勝手に叩けばいいというものではない。この謎はいまにいたるまで解けていない。

 中庭の中央がいわばステージだった。飛び入り参加のようなかたちでつぎつぎと人がステージに出て踊り狂った。しかし正直なところ座っている人々と踊っている人々の違いがわからなかった。踊りが得意か得意でないかの違いなのだろうか。踊っている人のなかにはあきらかに十代の若造もいたが、あごの下がたるんだ中年の男もいた。彼らはスーフィー、あるいはファキール(修行者、デルウィーシュ)で、見ている人々はそうではないのだろうか。

 おそらくここに来ている大半の人は神秘主義教団(タリーカ)のどれかに属する狭義のスーフィーではないが、スーフィズムの支持者ではあるだろう。資料によればシャー・ジャマル自身はカーディリー教団とスフラワルディー教団に属していたという。ちなみにカッワーリー音楽はチシュティー教団と関係が深い。

 厳密にいえば、ターリカ(神秘主義教団)の修道場で集団生活を営んでいる人々がスーフィーである。この修道場でジクル(神の名を唱えること)やサマー(ジクルとほぼおなじ言葉だが、神との合一を求める度合いが強い)などの活動をおこなう。広義の意味では、これらのミュージシャンやときおりターリカの活動に参加するような人々もスーフィーと呼べるのではないかと思う。

 さまざまな人々が踊っていたが、興味深かったのは、ヒンドゥー教の修行者か聖者のように見える人(50歳くらい)の参加だった。長髪でひげを伸ばし、ボロボロの衣をまとっていたが、乞食のようではなく、雰囲気はかっこよかった。とても踊りそうもないこの思索家然としたサードゥー(ヒンドゥー教修行者)がドラムの激しいリズムにあわせて踊るのを見て、私は感動し、感心させられたのである。もちろん彼はヒンドゥー教徒ではなく、イスラム教徒であり、おそらくファキール(デルウィーシュ)である。

 考えてみればシルディのサイババ(?−1918)だって、イスラム教のファキールであり、ヒンドゥー教のヨーギ(行者)でもあったという。ヒンドゥー教の神秘主義とイスラム教の神秘主義は思いのほか近く、ときには区別がつかないのだ。



 「スーフィー・ナイト」は毎週木曜日の夜、夜半の午前2時頃まで、パキスタンはラホールのシャー・ジャマル廟で音楽の宴が催される。楽器はドールと呼ばれる太鼓だけである。群衆で埋まった中庭(狭いい空間だ)の中央があくと、そこに太鼓たたき、そして数人の踊り手が飛び込んで、リズミカルな大音響のなか、トランス・ダンスに興じる。あまり大きな声では言えないが、ハッシッシのタバコがまわされ、坐っている連中もトランス状態に入る。トロンろした目の男が私にもしきりにすすめたが、もちろん断った。

 こんな乱痴気ドラッグ・パーティみたいなことをやってて大丈夫なのだろうか、と私は少し心配になった。実際、この直後の2010年、もうひとつのはるかに大きい有名なスーフィー廟でテロ事件が起きている。機会があればスーフィー音楽(カッワーリー音楽)の演奏を聞こうと考えていたそのダタ・ダルバルで大きな爆発があり、多数の死傷者が出たのである。タリバンとの関連が言われたが、真相はいまだ闇の中のようだ。

 「私は真理だ」と叫んで処刑された初期の偉大なるスーフィー、ハッラージ(858−913)を見ればわかるように、スーフィーとイスラムの正統派との相性はつねによくなかった。スーフィーはエクスタシー(陶酔状態)のなかでしばしば神を見たり、真理を知ったりするが、正統派からすれば神の冒涜にほかならない。

 イスラム原理主義者はやはりスーフィーが好きではないのだ。タリバンもアルカイーダもスーフィーを嫌っているので、ISも同様だろう。各地のスーフィー廟はISのテロの影におびえなければいけない時代になった。こうしてわれわれの知らないところで独特の文化が危機に瀕している。

 911以降とくに多発する自爆テロとISの所業、および増大する難民のせいでイスラム教に対するイメージはすっかり悪化してしまったが、スーフィーをおなじフレームに入れることはできない。ニューエイジの時代、欧米ではスーフィーやスーフィズムだけがまるでイスラム教でないかのように受け入れられ、好まれてきた。とくに人気の高いのがアフガニスタン北部のバルフに生まれ、モンゴル帝国の拡張とともに西へ移動し、トルコのコンヤを拠点としたペルシア人詩人のルーミー(1207−1273)だった。現代詩人コールマン・バークスが朗読するルーミーの神秘的な美しい詩は絶大な人気を博した。おそらくこうしたニューエージ世代の欧米人に評価されればされるほど、スーフィーおよびスーフィズムはイスラム原理主義の目の敵とされていくだろう。


 アマトゥッラー・アームストロング 『そして空は限りなく』 

*数が多いとは言い難いが、ニューエージ世代のなかにはスーフィー好きからイスラム教に改宗する者もいた。オーストラリア人のアマトゥッラー・アームストロングもそのひとりだ。彼女はスピリチュアルな旅のはてにパキスタンの有名なカッワーリー音楽バンド、サブリ・ブラザーズと出会い、メンバーと結婚し、改宗している。

*西欧出身の女性スーフィーといえば、ロシア出身のイリーナ・トゥイーディー(1907−1999)である。彼女はボルシェビキの手から逃れて、家族に連れられて中央アジア、オーストリア、スイス、イタリア、フランスと移動し、最終的には英国に落ち着いた。彼女は神智学協会のメンバーとなって活動し、1959年にインドへ行った。1961年、彼女はナクシュバンディ―教団のヒンドゥー(!)・スーフィー、ラダ・モハン・ラル(1893?−1966?)と運命的に出会う。彼女は西欧初の修行を経た女性スーフィーとなった。その過程は著書『火の娘 スーフィーの師のもとでのスピリチュアル・トレーニング日記』に描かれている。なおゴールデン・スーフィー・センターを主宰する神秘主義者ルウェリン・ヴォーン=リーはイリーナの後継者。 
⇒ 神秘主義者ヴォーン=リー、インタビュー
 
⇒ 火の娘 スーフィーの師のもとでのスピリチュアル・トレーニング日記 


 本稿の趣旨とはずれるが、インド・ラージャスターン州アジメールのチシュティー派スーフィー廟も2007年10月に爆破テロの被害にあっている。なぜずれるかといえば、犯人はイスラム教の原理主義者ではなく、ヒンドゥー教の民族主義者だからだ。

 あらためてネットで調べると、ラホールのスーフィー廟の自爆テロのあと、パクパタンのババ・ファリド廟、カラチのアブドゥッラー・シャー・ガズィ廟でも同様の事件が起きている。これらはタリバンかそのシンパによって起こされたものだろう。この流れをISが引き継がなければいいのだが。

 また2012年5月、アフリカ、マリのトンブクトゥの美しいスーフィー廟シディ・マフムド・ベン・アマールが破壊されたのも記憶に新しい。イスラム過激派がなぜイスラム教の聖者廟を破壊しなければならないのか、多くの人にはわかりにくかったろうが、スーフィー廟だからこそ狙われてしまったのである。*最近(2016年8月)のニュースによると、聖者廟やモスクの破壊を命じた犯人グループのひとりはハーグの法廷で、この行為を後悔していると述べたいう。残念ながら破壊したものは元に戻らないので、この男(アフマド・ファキ・マフディ容疑者)はジャハンナム(地獄)の業火に焼かれてしまうだろう。ところで最近見たテレビシリーズ「ルーツ」(2016年)では、クンタ・キンテがはるかに遠いこのトンブクトゥで勉学の道に進みたいと表明している。当時(1770年頃)、トンブクトゥはあこがれの文化都市だったのだろう。 

*スーフィー廟でISの自爆テロ! 2017年2月16日(木)夜、日本時間の2月17日(金)未明、パキスタン南西部シンド州セーワンのスーフィー廟、ラル・シャフバズ・カランダル廟で自爆テロがあり、少なくとも72人が死亡したという。ここに書いたように木曜日の夜は信者がスーフィー廟に集まるので、ターゲットになりやすかった。ラル・シャフバブ・カランダル(1177−1275)はイラン・マルワンド生まれで、セーワンに長く暮らした詩人哲学者。永い眠りを醒まさんばかりの血なまぐさい事件が自分の埋葬される廟で起こるとは想像だにしなかっただろう。

*パンジャブのスーフィー廟大量殺害事件 2017年4月2日、パンジャブのサルゴーダーのスーフィー廟で20人の信者が殺害されるという痛ましい事件が発生した。この廟の管理人アブドゥル・ワヒード(50)が信者ひとりひとりを(廟内の?)彼の部屋に呼び入れ、毒の入った食べ物を食べさせたあと、複数(ふたり?)の仲間とともに短刀やスティックを使ってかれらを殺したという。主犯の男は「殺さなければ殺される」と話しており、精神疾患を思わせるが、複数の仲間がいたことから考えると、信者が二つのグループに分かれ、争っていたのかもしれない。いずれにしろISや原理主義者とは関係ないように思われるが、スーフィーのイメージを損ねる事件である。

*シナイ半島のスーフィー廟で虐殺 2017年11月25日、エジプト・シナイ半島ビル・アル・アベドのスーフィー信徒が集まるアル・ラウダ・モスクで、IS(イスラム国)の旗を掲げた襲撃犯らによって、30人の子供を含む少なくとも305人が殺害された。目撃者たちによると、礼拝中に爆発があり、外で待ち構えていた数十人が逃げ出そうとする人たちを銃撃した。NHK・BSのニュース番組で専門家は否定的だったが、これはあきらかにスーフィズムを信仰する者の狙い撃ちである。ちなみにエジプトのイスラム教徒8千万人のうち、スーフィーは1500万人であり、20%弱、5人に1人とけっして少なくない。エジプトのタリーカ(スーフィー教団)の数は77あり、最大教派はリファーイー教団で200万人、つぎにアズミヤ―教団で100万人とされる。アル・ラウド・モスクは地域限定の小規模のジャリリ教団に属するという。
⇒ 詩を書く前、十日間のトランスに入ったエジプトの神秘主義詩人、イブン・アル・ファリド 



 聖者(ワリー)崇拝はスーフィズムの中核ともいえる。ワリー(wali)について「イスラム辞典」はつぎのように定義している。

 のちにはこの「神の友」を意味するワリーが「神を知る者」としてのいわゆるスーフィーの聖者の意に限定されてくる。すなわち欲情の支配から解放され、神から奇跡(カラーマ)という特別の恩寵を与えられ、神に作用を及ぼしうる人を意味するようになる。そしてクトブ(軸)を頂点として、宇宙の運行をつかさどる一定数の聖者のヒエラルヒーが定められる。(……)聖者は民衆の願望を神に取り次ぎ、代願することができると考えられた。これが聖者の墓所を中心とするいわゆる聖者崇拝である。


 このようなスーフィズムの聖者崇拝は「中世イスラム的」とみなされ、とくに原理主義者からは厳しく批判されてきた。テロリズムの対象がおなじイスラム教のなかの聖なるものに向けられるのは、こうした理由からだった。言い換えるなら、スーフィズムに対するテロ攻撃がやむことはありえず、むしろ激化する可能性すらあるということである。
 スーフィズムはイスラム教の神秘主義であり、おそろしくヒンドゥー教や仏教のタントリズム(密教)に近いところがある。彼らがめざすのは「神との合一」である。タントラにおいて導師と弟子の関係が重要であるように、スーフィズムにおいてもシャイフやピールと呼ばれる導師とムリードと呼ばれる弟子の関係は重要である。これも「イスラム辞典」から引用すると、ムリードは導師にたいして「死体洗い人の前の死体」のようであらねばならないと説かれるという。ムリードの精神的発展段階に応じて、導師は教団の秘儀を伝授していく。用語を置き換えたらヒンドゥー教や仏教のタントラとそっくりであることがわかる。原理主義者が忌み嫌う点が、われわれには魅力的に映ってしまうのはいたしかたない。





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