チョナン派      宮本神酒男 訳

抹殺されかけたチベットの人気宗派

チョナン派の成立

1 カーラチャクラのチベットへの伝播

 チベット密教には五大タントラが世に知られるが、そのなかでも時輪(カーラチャクラ)タントラがチョナン派のもっとも重要な修行法とみなされてきた。このようにチョナン派の形成とカーラチャクラ教法の伝播には密接な関係があった。
 『青史』『チョナン教法史』などによると、カーラチャクラはカチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポによってチベットにもたらされた。カチェ・パンチェン(
Kha che Pan chen)、名はダワ・ゴンポ(Zla ba mgon po)、漢訳して月怙、11世紀に生きたバラモン出身のカシミール人。
 幼い頃から十年間、父よりバラモン教の教育を受ける。のち母の命に従い仏教徒に改宗する。故郷でカーラチャクラを伝えたインド人僧チャンチュブ・サンポ(
Byang chub bzang po)に会い、インド人学者ドゥワ・チュンネ・ロドゥ('Dul ba 'byung gnas blo gros 戒生智)がチャンチュブ・サンポに与えたカーラチャクラ関連の『灌頂略示』『灌頂広示』二書を学び、啓示を受け、信仰心を持った。ついにインドへ行き、カーラチャクラを学んだ。

 ドゥワ・チュンネ・ロドゥの生涯に関しては仏教史中に記載がないが、『青史』のカーラチャクラの項には記述がある。シャンバラ国でドゥシャブ・チェンポ(Dus zhabs chen po)が白蓮法王からカーラチャクラを学び、その後インドに戻ったとき五人のパンディタに教えを伝授したのだが、五人のうちのひとりがドゥワ・チュンネ・ロドゥだった。

 カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポはインドに行きドゥワ・チュンネ・ロドゥから学んだわけではなかったが、ドゥシャブ・チュンワ(Dus zhabs chung ba)に直接拝し、カーラチャクラに関した灌頂や儀軌、『時輪根本タントラ』とその解釈を学び、修行をしたあと、シッディ(成就)の境地に至った。長い間穀物を避け、二便を断ち、盗賊などの類の悪人に対しその身体を硬直させことができた。修練を積んで非常に高い境地に達していたのである。

 『チョナン教法史』によると、カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポは学んだあと三度チベットへ行き、カーラチャクラを伝え、ド氏('Bro)系統の四代目となり、カーラチャクラのほかに『明灯論』やナーガールジュナの諸著、アサンガの『五部地論』なども教授した。

『青史』によると、カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポはカーラチャクラを伝えるために何度もチベットへ行った。チベットでは『時輪経』を教え、『時輪無尽明灯教授釈論』や『根本智論』を著した。彼はチベット語にも通じていた。ンガリ、そしてツァンに行き、『勝義近修法』と『時輪タントラ広釈』をチベット語に翻訳した。

比較的信じられる説としては、カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポは二度チベットに来た。ユルポ・サンユル(gYor po'i bzang yul)地方のゲシェ・ジェパ(dGe bshes rCe pa)父子にカーラチャクラを教えた。同時に他の人に教えるとき、ジェパ父子はその場にいて通訳を担当したという。
 はじめてチベットに来たとき、カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポはツァンのチュシュル(
Chu shul)を訪ね、二度目のときはペンユル('Phan yul)地方のゲシェ・コンチョクスン(dGe bshes dKon mchog bsrung 宝護)師弟によるもてなしを受けた。カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポはチベットのほかの師に伝えられていないカーラチャクラの本タントラ、タントラ釈のすべてをコンチョクスン師弟に教授した。

 ド氏('Bro)の伝承によると、カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポがチベットに来たとき、三人の者が教えを受けた。ひとりはド訳経師シェラブ・ダクパ('Bro lo Shes rab grags pa 慧称)で、カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポが講義するカーラチャクラを目の前に坐ってすべて聞き、殊勝ラマとなった。
 二人目は、ラジェ・ゴムパ・コンチョクスン(
Lha rje sGom pa dKon mchog bsrung)で、カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポが講義したカーラチャクラの灌頂、タントラ釈、秘訣のすべてを目の前に坐って聞いた。
 三人目は、ラマ・ドトゥン・ナムゼ(
bLa ma sGro ston gnam brdzegs)で、カーラチャクラの灌頂とすべてのタントラ釈を学んだ。チョナン派がチベットにおける始祖と追認するユモ・ミキュ・ドルジェ(Yu mo Mi bskyod rdo rje 不動金剛)は法縁を結んだものの、直接カーラチャクラの教えを受けたわけではなく、このドトゥン・ナムゼから学んだのだった。

 カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポの生没年は文献中に記載がなく、チベットにおける活動の詳細を記した資料もまた発見されていない。チベット暦の第一年であるラプチュン年(Rab byung)紀年は、『時輪タントラ』がチベットに入った1027年だった、というのはほぼ定説だ。『時輪タントラ』は北宋の天聖年間にチベットに流伝したのである。
 ド氏の伝承によれば、主要三大弟子のひとり、ド訳経師が、その生没年はわからないが、カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポからカーラチャクラの教法をすべて学び、五代目のカーラチャクラ伝承者となった。ほかの二人の弟子に関していえば、各種文献にはごく簡単な記述しか見当たらない。ラジェ・ゴムパ・コンチョクスン、通称ゴムパ・コンチョクスンは、ラジェという呼称から医学に通じていたことがわかり、ゴムパから密教の修練にたけていたことが知られ、コンチョクスン(宝護)が基本的な名である。
 コンチョクスンはカチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポがチベットに来ると、家財のすべてを
6両の黄金に変え、献上し、身口意でもって供養し、『時輪タントラ』の根本タントラ、ならびに釈と秘訣の伝授を求めた。彼はド訳経師の弟子であったことから、六代目の伝承者と認定されている。

ラマ・ドトゥン・ナムゼ、あるいはナムラゼパ(天積)、通称ドトゥン・ナムゼは、年少の頃から篤く仏教を信じ、仏学にいそしみ、仏教経典に精通した。晩年になってカシミールへ行き、カチェ・パンチェン・ダワ・ゴンポに拝し、カーラチャクラの伝授を懇願した。
 カチェ・パンチェンは彼の誠意と強さを試した。すなわち彼にチベットのマンユル地方に宝物を運ばせ、後日自らチベットへ行ったあと、伝授すると答えた。ドトゥン・ナムゼはチベットに戻り、友人の勧めもあってあらためてゴムパ・コンチョクスンにカーラチャクラの伝授を求め、『時輪根本タントラ』とその釈論、教法を学び、修行によって悟りを得た。
 のちカチェ・パンチェンがチベットに来たとき、ドトゥン・ナムゼはふたたび拝謁した。カチェ・パンチェンは彼に灌頂を与え、修法等の儀式を行い、あらたにカーラチャクラの法門を開示した。こしてカーラチャクラの正統な伝承人となった。ド氏の伝統では、ドトゥン・ナムゼは七代目とされる。

 

 

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